作品タイトル不明
第379話:ソファーと、限界を迎える腹筋
「……朝陽くん。私のソファになりなさい」
凛の口から飛び出した、斜め上すぎるその要求。
俺は一瞬ポカンとした後、思わず吹き出してしまった。
「ははっ、なんだよそれ。ソファってどういうことだ?」
「その……お仕事のラフが終わって、これから線画と塗りの作業に入るから、どうしても大きな画面と液タブが必要なの。でも、一人で部屋にこもるのは……寂しくて、無理」
「なるほど。だから俺に隣にいてほしいと」
「ううん。隣じゃなくて……後ろ」
そう言って、凛は自分の部屋から、重たいデスクトップPCの本体と、大きな液晶ペンタブレットをせっせと運び出してきた。
そして、リビングの中央にある背の低いローテーブルの上に、手際よく作業環境を構築していく。
「よし、準備完了。……朝陽くん、そこに座って?」
凛が指差したのは、ローテーブルのすぐ手前。
言われるがままに俺が座布団の上に胡座をかいて座ると、凛はその俺の両足の間にすっぽりと収まるように腰を下ろし、俺の胸に自分の背中をぴたりと預けてきた。
「ちょっ……凛!?」
「んっ……うん、サイズ感ぴったり。さすが私の特等席」
俺の腕の中にすっぽりと収まった凛は、満足そうに琥珀色の瞳を細めて微笑んだ。
「飲み物とかを取りに行く時は離れてもいいけど……私が作業して座ってる間は、ずっとこうして、私にくっついててね。後ろから抱きしめててくれてもいいから」
「…………っ」
とんでもないルールが制定されてしまった。
これが、人間ソファの業務内容。
凛は早速ペンを握り、カツカツと小気味良い音を立てて画面に向かい始めたのだが……その後ろで支える俺の心臓は、早くも限界を迎えようとしていた。
(……やばい。これ、想像以上にやばいぞ)
腕の中に収まる、華奢で柔らかな体。
艶やかな漆黒の髪から、動くたびにふわふわと漂ってくるシャンプーの甘い匂い。
そして何より、俺の胸にダイレクトに伝わってくる、彼女の温かい体温。
変な目で見ないように、変なことを考えないようにと、俺は必死に虚無の表情を作って天井を仰ぎ見る。
さらに、精神面だけでなく『肉体面』でも俺は密かな戦いを強いられていた。
完全にリラックスして体重を預けてくる凛を、後ろに倒れないようにしっかりと支え続けるには、背筋を伸ばし、腹筋にグッと力を入れ続けなければならないのだ。
(くっ……心臓が爆発しそうな上に、腹筋まで限界を迎えそうだ……!)
俺は理性の維持と肉体の限界から気を紛らわせるため、片手でそっとスマホを取り出した。
ブラウザを開き、検索窓に打ち込むワードは『座椅子 2人用』『ローソファ コンパクト』。
いくらなんでも、毎回腹筋を酷使して支え続けるのは俺の体がもたない。
だが、凛がこうして寄りかかって作業したいと言うのなら、二人で楽にくっつける家具を買えばいいだけの話だ。俺は真剣にネットショッピングのサイトを眺め、レビューを見比べていた。
「……朝陽くん、何見てるの?」
不意に、凛が背中を預けたままコテンと頭を後ろに倒し、俺のスマホの画面を逆さまから覗き込んできた。
「ん? ああ、2人用の座椅子とかローソファがないか探してたんだよ」
「ソファ?」
「いや、さすがに毎回腹筋で支えるのはキツイからさ。これなら、凛が作業中ずっとくっついてきても、俺も楽に背中を貸してやれるだろ?」
俺が素直にそう答えると、逆さまになった琥珀色の瞳がパチクリと数回、瞬きをした。
そして数秒後。
俺の言葉の意図――『これからもずっと、自分がくっついて作業することを前提に考えてくれている』という事実に気づいた彼女の白い頬が、みるみるうちに真っ赤に染まっていった。
「それって……その、これからもずっと、私がくっついて作業するの、許してくれるってこと……?」
凛の声が、ほんの少しだけ上擦って震えている。
俺は自然と頬を緩ませ、彼女の頭を優しく撫でた。
「当たり前だろ。これで凛が安心して作業に集中できるなら、いくらでもソファになってやるよ。だから、次はもっと楽にくっつけるやつ、一緒に選ぼうな」
「〜〜〜〜っ!」
凛は、耳の先まで真っ赤にしながら、パッと勢いよく前を向いた。
照れ隠しのように両手で自分の顔を覆っているが、俺の胸に押し付けられた彼女の背中からは、ドクドクという早い心音が伝わってくる。
「……ほんとに、甘やかしすぎ……」
消え入りそうな声でそう呟いた凛は、少しだけ体をよじらせると、先ほどよりもさらに深く、俺の胸に全体重を預けるようにすりすりと甘え直してきた。
そのあまりの可愛さに、俺の腹筋の辛さなど、とうの昔に宇宙の彼方へ消え去っていた。
その後、ただ座っているだけでは俺の理性がもたないので、時折「人間ソファ」から離脱し、甲斐甲斐しくサポート業務に励むことにした。
「凛、温かい紅茶淹れたぞ」
「わぁ、ありがとう」
「あと、一口サイズのチョコレートとクッキー。ほら、あーん」
「あーん。……ぱくっ。ん〜っ、美味しい!」
俺が口元まで運んでやったチョコレートを頬張り、凛は幸せそうに頬を緩ませる。
俺の体温と、至れり尽くせりの給餌サポートのおかげか、今日の彼女はかつてないほどの凄まじい集中力を発揮し、作業は爆速で進んでいった。
それから数時間後。
「……よしっ! きりのいいところまで終わった!」
凛がペンを置き、大きく伸びをした。
「お疲れ様。すごい集中力だったな。やっぱりプロはすごいよ」
「えへへ……それもこれも、最高のソファーがあったおかげだよ」
凛はくるりと俺の方を振り返ると、今度は正面から俺の首に腕を回し、ぎゅっと抱きついてきた。
「……充電、完了」
完全に俺に依存しきった幸せそうな笑顔を見てしまえば、理性を総動員した疲れも一瞬で吹き飛んでしまう。
「お粗末様でした。……さて、それじゃあ座椅子探しの続きでもするか?」
「うんっ! 絶対にふかふかのやつがいい!」
俺は苦笑しながら、腕の中の愛おしいイラストレーターの背中を、優しくポンポンと叩いてやったのだった。