軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第373話:灰色の記憶を塗り替える、二人のお風呂掃除

「朝陽? 凛ちゃん? ……どうしたの、何かあった?」

背中から凛に力強く抱きしめられ、俺がゆっくりと、深く息を吐き出した直後。

物音や、あまりにも時間がかかっているのを心配したのだろう。

おじさんとおばさんが、慌てた様子で浴室の入り口に姿を見せた。

「あっ……おじさん、おばさん」

「お風呂掃除なんて、俺たちがやるから大丈夫だよ? 座ってていいのに……」

心配そうに眉を下げる二人に向かって、俺はゆっくりと立ち上がり、そして真っ直ぐな声で言った。

「すみません、ご心配をおかけして。……でも、俺がやりたかったんです。それから」

俺は隣に立つ凛の顔を見て、それからもう一度、おじさんたちに向き直った。

「自分の過去を、ちゃんと克服したかったんです」

俺の言葉の真意を悟ったのだろう。

おじさんとおばさんはハッとして、それから少しだけ目を潤ませて、深く、深く頷いてくれた。

「そう……わかったわ。じゃあ、お願いするわね」

「無理はするなよ。……ありがとうな、朝陽」

二人がリビングへと戻っていくのを見送り、俺は床に落ちていたスポンジを拾い上げた。

すると、隣にいた凛が、着ていた服の袖と裾をきゅっきゅっと捲り上げ始めた。

「凛?」

「私も、一緒にお掃除する」

「いや、でも凛は服が濡れちゃうし……」

「いいの。……朝陽くんと、一緒に綺麗にしたいから」

琥珀色の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめていた。

その揺るぎない優しさに、俺は嬉しくて小さく笑みをこぼした。

「……そっか。じゃあ、お願いしようかな」

俺が洗剤のボトルを手渡すと、凛は「うんっ!」と元気よく頷いた。

それから、二人で並んで浴室の床やバスタブを磨き始めた。

シュッシュッと洗剤を吹きかけ、スポンジでこする。

シャワーのお湯をかけると、モコモコとした白い泡が足元に広がっていった。

「あははっ、朝陽くん、泡がいっぱいついてるよ」

「おわっ、凛、シャワーこっち向いてるって!」

「あ、ごめんごめんっ」

はしゃぐ凛の明るい笑い声が、狭い浴室に響き渡る。

(……ああ、そうか)

俺は、シャワーを浴びて楽しそうに笑う彼女の横顔を見つめながら、静かに息を吸い込んだ。

かつて、絶望しかなかったこの場所。

光の届かない薄暗い浴室の空気と、左腕の内側からとめどなく伝い落ちていた、命が零れていくようなひどく生温かいあの温度。全てを諦めようとした灰色の視界。

その暗い記憶のフィルターが、彼女の存在によって、今、パラパラと音を立てて崩れ去っていくのを感じた。

ピンク色のスポンジ、白い泡、温かいシャワーの湯気。

そして何より、隣で笑う大好きな彼女の、艶やかな黒髪と桜色の唇。

ずっと灰色だった俺の過去の景色が、凛と一緒に掃除をすることで、信じられないくらい鮮やかで温かい色味を帯びていったのだ。

「……綺麗になったね、朝陽くん」

ピカピカになったバスタブを見て、凛が満足そうに額の汗を拭った。

「ああ。手伝ってくれて、ありがとうな」

もう、ここには暗い記憶は一つもない。

ここはただの、俺と凛が二人で掃除をした、綺麗で温かいお風呂場だ。

お風呂にお湯を張っている間、俺たちは二階にある俺の自室へと移動した。

「わぁ……ここが、朝陽くんが育った部屋なんだね」

部屋に入るなり、凛は興味津々といった様子でぐるぐると見回した。

机と本棚、そして部屋の隅にはシングルベッドが一つ置かれているだけの、シンプルな部屋だ。

「俺たちが来るって言うんで、おじさんたちが掃除してくれてたみたいだ。本当にありがたいよ」

「うん。……でも、このベッドだと、二人で寝るのはちょっと狭いかもね」

凛がシングルベッドをぽんぽんと叩きながら、少しだけ残念そうに、そして少し期待するように呟いた。

そこへ、廊下から足音が聞こえてきた。

「朝陽ー、お布団持ってきたわよ」

「ありがとうございます」

おばさんが抱えてきたのは、新しく洗濯された、いい匂いのするふかふかの客用布団だった。

「ベッドは朝陽が使ってね。凛ちゃんは、こっちの新しいお布団でゆっくり休んでちょうだい。広くてふかふかだからね」

「ありがとうございます!」

凛は嬉しそうにお辞儀をした。

これで、寝る場所の確保もバッチリだ。

それから、順番にお風呂に入ることになった。

凛、おばさんの順に入り、最後が俺の番だ。

綺麗になった浴室で、俺は温かいお湯がたっぷりと張られた湯船にゆっくりと肩まで浸かった。

「……はぁ、生き返る……」

心底リラックスして目を閉じた、その時。

「……朝陽くん」

脱衣所のドアの向こうから、小さく、けれどはっきりとした凛の声が聞こえた。

「凛? どうした、忘れ物か?」

「ううん……あの、大丈夫かなって思って。一人で、お風呂……」

ドア越しに聞こえる声のトーンで、彼女がドアのすぐ外にぺたんと座り込んでいるのが分かった。

俺がまた過去の記憶を思い出して苦しくなっていないか、心配して待っていてくれているのだ。

「あはは、もう本当に大丈夫だって。凛と一緒にピカピカにしたお風呂だからな、すごく気持ちいいよ」

「……ほんと?」

「本当だよ。心配してくれてありがとうな」

俺が笑いかけると、ドアの向こうでホッと息を吐く気配がした。

それから、俺たちはドア越しに、今日のお昼ご飯の天ぷらが美味しかったことや、おじさんの運転が意外とワイルドだったことなど、他愛のない話をいくつか交わした。

お風呂のドア越しに好きな子と会話をするなんて、なんだかすごく不思議で、くすぐったい気分だった。

「俺、もうちょっと温まってから出るから。凛、湯冷めする前に部屋に戻ってていいぞ」

「うん、わかった。……待ってるね」

パタパタと、廊下を歩いていくスリッパの足音が遠ざかっていく。

俺はその音が完全に聞こえなくなるのを確認してから、ゆっくりと湯船を出た。

体を拭き、洗面所でしっかりと髪を乾かしてから、二階の自室へと戻る。

「ただいま」

ガチャリとドアを開けると。

俺の部屋の真ん中に敷かれたふかふかの布団の上に、ちょこんと座った凛が待っていた。

「おかえりなさい、朝陽くん」

彼女は、ふにゃりと柔らかい、年相応の可愛らしい笑顔を浮かべた。

俺の部屋に、俺の大好きな人がいる。

それも、あんなに辛かった過去を、世界で一番温かい色に塗り替えてくれた女の子が。

その事実だけで、胸の奥がじんわりと甘く満たされていく。

「……待たせたな」

俺は自然と緩む頬をそのままに、彼女の向かい側に腰を下ろした。

静かな夜。

ここからは、俺たち二人だけの、優しい時間の続きだ。