作品タイトル不明
第374話:膝枕と、ふかふか布団
お風呂から上がり、髪を乾かして俺の自室へと戻った後のこと。
「さっき、お風呂掃除一緒にやってくれてありがとな。本当に、すごく助かった」
部屋の中央に敷かれたふかふかの客用布団に座る凛に向かって、俺は改めてお礼を言った。
すると、凛は少しだけ得意げに「ふふんっ」と笑い、自分の太ももをポンポンと手で叩いた。
「今日は、私が朝陽くんをいっぱい甘やかしてあげる。……ほら、こっちに来て?」
「えっ? いや、でも……」
「いいからいいから!」
半ば強引に手首を引かれ、俺は凛の目の前に引き寄せられた。
凛は布団の上で少し崩した女の子座りのような体勢になり、もう一度、自分の膝をトントンと叩く。
「……膝枕、してくれるのか?」
「うん。でも、横向きじゃなくて、こう……私の方に足を向けて、縦に寝転がってみて?」
「縦に?」
言われるがまま、俺は凛の足の間に自分の肩を収めるようにして、縦方向に仰向けに寝転がった。
後頭部が、柔らかくて温かい彼女の太ももにすっぽりと収まる。
「あ……」
目を開けると、そこには、俺の顔を上から覗き込む凛の顔があった。
縦に寝転がっているため、俺の視界に映る彼女の顔は『逆さま』だ。
重力に従って、艶やかな黒髪がさらりと俺の頬に触れる。
「……どう? 逆さまの私」
「いや……その、すごく……綺麗だなって」
「ふふっ。朝陽くんの顔、真っ赤」
普段は俺が彼女の世話を焼くことが多いけれど、今日の凛はなんだか少しだけ小悪魔だ。
凛の細くて冷たい指先が、俺の前髪を優しく梳いていく。
それから、指の腹で俺のほっぺたをつんつんと突き、さらには首筋のあたりを、くすぐるようにゆっくりと撫で始めた。
「…っ……ちょっと、凛、そこはくすぐったいって」
「だーめ。今日は私が甘やかす日なんだから、大人しくしててね」
逆さまの琥珀色の瞳が、楽しそうに細められる。
シャンプーの甘い香りがすぐそばで香り、彼女の温もりが後頭部からじんわりと伝わってくる。
心臓がうるさいくらいに鳴っているのが、彼女にバレていないか心配だった。
「……まさか、自分が育ったこの部屋で、彼女に膝枕をしてもらう日が来るなんてな。思ってもみなかったよ」
「えへへ。私も、朝陽くんの子供の頃の部屋に入れるなんて、すごく嬉しい。 朝陽くん、この部屋でどんな風に過ごしてたの?」
「どんな風にって……大したことはしてないよ。いじめがひどかった時期は、学校から帰ってきたら本当にこの部屋に引きこもって、ずっと本を読んだり、料理の勉強をしたりしてた。この天井をぼーっと見上げながら、早く大人になりたいなぁ、なんて考えてたっけ」
俺が少し苦笑いしながら過去を振り返ると、凛の指の動きがふっと優しくなった。
俺の髪を愛おしそうに何度も撫でながら、逆さまの彼女が寂しそうに眉を下げる。
「そっか……寂しかったね、朝陽くん。でもね?」
「ん?」
「これからは、もうあの頃みたいに寂しい思いはさせないから。アパートの朝陽くんの部屋でも、私の部屋でも……これからも、ずっとこうしていっぱい一緒に過ごそうね」
「凛……」
「約束、だよ?」
そう言って、下からのぞき込む俺の視線に合わせて、ふにゃりと柔らかく微笑む凛。
その優しさに胸がいっぱいになって、俺はただ「ああ、約束だ」と、掠れた声で答えるのが精一杯だった。
コンコン。
その時、不意に廊下からドアをノックする音が響いた。
「っ!?」
「朝陽ー? 起きてる?」
ドアの向こうから、おばさんの声が聞こえる。
俺たちは弾かれたように体を起こし、慌てて膝枕の体勢を解除した。
「お、起きてるよ!」
「おじさんも私も、もう寝るからね。二人とも、ゆっくり休んでちょうだい。おやすみなさい」
「あ、はい! おやすみなさい!」
「おやすみなさい……!」
俺と凛が声を揃えて返事をすると、「ふふっ、おやすみ」と温かい声が返ってきて、やがてパタパタと足音が遠ざかっていった。
一階の灯りが消されたのか、家の中が完全に静まり返る。
「……びっくりしたぁ」
「心臓止まるかと思った……」
顔を見合わせ、俺たちは思わず声を殺してクスクスと笑い合った。
「じゃあ……そろそろ、寝るか。今日も色々と動いて疲れただろ」
「うん」
俺が立ち上がり、部屋の隅にある自分のシングルベッドに向かおうとした、その時だった。
背後でガサッと布団の擦れる音がしたかと思うと、
「……よいしょっと」
「えっ?」
なぜか凛が、客用布団ではなく、俺のシングルベッドの掛け布団をめくって、スルスルと中に潜り込んできたのだ。
「ちょ、ちょっと待って凛!?」
「なに?」
「なに? じゃないよ! おばさんがせっかく凛のために広い布団を用意してくれたんだから、そっちで寝ないと!」
「でも、朝陽くんと一緒に寝たいんだもん」
ベッドの端に寄り、俺が入るスペースをポンポンと叩く凛。
その誘惑に負け、俺は恐る恐るシングルベッドに体を滑り込ませた。
「っ……ほら、やっぱり狭いって! これじゃ二人とも落ちるぞ!」
もともと一人用の小さなベッドだ。
俺たちが並んで寝ると、肩と肩、脚と脚がぴったりと密着し、少しでも寝返りを打てばどちらかが床に転がり落ちてしまいそうなほどの狭さだった。
「う〜ん、確かにちょっと狭いかも……」
「だろ? だから、凛は下の布団で……」
「じゃあ」
凛はくるりと俺の方を向き、名案を思いついたと言わんばかりのキラキラとした瞳で俺を見つめた。
「二人で、下の広いお布団で寝ればよくない?」
「…………」
それは、悪魔的でありながら、あまりにも合理的な提案だった。
「……よし、そうしよう」
「やったぁ!」
あっさりと陥落した俺は、凛と一緒にベッドを降り、おばさんが敷いてくれたふかふかの客用布団へと潜り込んだ。
今度は十分に広い。
俺が腕を伸ばすと、凛が待っていましたとばかりにすっぽりと俺の腕の中に収まり、胸元にすりすりと顔を擦り付けてきた。
「んん〜……あったかーい……」
「こら、あんまり動くなって……」
幸せそうに目を閉じる凛の頭を優しく撫でながら、俺は天井を見上げて、ふと冷静になった。
(……待てよ)
今、俺たちは一つの布団の中で、完全に抱き合って寝ている。
(……これ、明日の朝もし寝坊して、おじさんかおばさんが起こしに来たら……俺、一体なんて言い訳すればいいんだ……?)
一抹の、いや、かなりの不安が脳裏をよぎる。
しかし、腕の中で規則正しい寝息を立て始めた彼女の甘い匂いと、その愛おしすぎる温もりに包まれてしまえば、そんな不安も次第に遠のいていった。
「……まあ、いっか」
俺は凛の背中に回した腕の力を少しだけ強め、世界で一番安心して、深く甘い眠りへと落ちていった。