作品タイトル不明
第372話:再会と、過去を溶かす君の温もり
改札を抜けると、少し離れた場所で、スーツ姿のおじさんと少し派手な色のコートを着たおばさんが、満面の笑みで大きく手を振っていた。
「朝陽ー! こっちこっち!」
「あけましておめでとうございます、おじさん、おばさん」
俺がペコリと頭を下げると、二人は嬉しそうに目を細め、そして俺の隣に立つ凛へと視線を移した。
「ご無沙汰しております。あけましておめでとうございます」
凛は両手を前でスッと揃え、背筋を伸ばして完璧で美しいお辞儀をした。
冬の澄んだ空気の中、艶やかな黒髪がさらりと揺れ、透き通るような琥珀色の瞳が優しく微笑んでいる。秋に一度挨拶を済ませているとはいえ、学校で『氷の令嬢』と呼ばれる彼女の、この洗練された礼儀正しさと圧倒的な美しさは、何度見ても目を奪われるものがあった。
「あけましておめでとう、凛ちゃん! 相変わらず、本当に綺麗なお嬢さんねえ」
「さあさあ、外は寒いから、とりあえずお昼ご飯を食べに行こうか!」
おじさんたちに案内され、俺たちは駅の近くにある落ち着いた雰囲気の和食レストランへと向かった。
温かいお茶を飲み、天ぷらやお刺身の御膳をいただきながら、俺たちの最近の学校生活や、お互いの実家での出来事など、他愛のない話題で和やかに会話が弾んだ。
昼食後、おじさんの運転する車で、おばさん夫婦の家へと到着した。
凛の実家のような立派な日本家屋ではないが、どこか懐かしい匂いのする、一般的な二階建ての一軒家だ。
「えっと、こっちがトイレで、突き当たりがお風呂な」
「うん、わかった」
俺が簡単に家の中の案内を済ませた後、四人でリビングのソファに座り、おばさんが淹れてくれたコーヒーと紅茶をいただいた。
「それにしても……本当に、二人とも元気そうでよかったわ」
おばさんが、ティーカップを両手で包み込みながら、少しだけ潤んだ目で俺たちを見た。
両親を亡くし、一度は完全に心を閉ざしていた俺を、自分の子供のように心配し、面倒を見てくれた二人だ。
「いつも、朝陽くんには助けてもらっていますので!」
凛が、カップをコトリと置いて、真っ直ぐにおばさんの目を見て言った。
「私が家事が全然できないので、朝陽くんが毎日美味しいご飯を作ってくれて……。朝陽くんのご飯は、世界で一番美味しいんです。朝陽くんがいなかったら、今の私はいないくらい、本当に感謝しています」
嘘偽りのない、彼女の心からの言葉。
それを聞いたおじさんとおばさんは、顔を見合わせて、心底安心したように優しく微笑んだ。
「そう……よかった。朝陽の料理が、凛ちゃんの役に立ってるのね」
「朝陽、これからも凛ちゃんのこと、大切にするんだぞ」
「……はい。もちろん」
二人の間に流れる穏やかで甘い空気を感じ取ってくれたのか、おばさんたちは本当に嬉しそうに頷いてくれた。
夕方。晩ご飯の準備の時間がやってきた。
「おばさん、俺も手伝うよ」
俺が立ち上がろうとすると、おばさんはパタパタと手を振って俺を制止した。
「いいのいいの! 今日は新年のお祝いだし、朝陽くんたちは大事なお客さんなんだから。座って、凛ちゃんとゆっくりテレビでも見てなさいな」
「でも……」
「いいから! たまにはおばさんに甘えなさい」
そう言って笑うおばさんの好意に、俺は素直に甘えさせてもらうことにした。
やがて、リビングのテーブルの中央にカセットコンロが置かれ、大きな鉄鍋が運ばれてきた。
「さあ、今日はすき焼きよ!」
熱した鍋に牛脂を塗り、見事なサシの入った牛肉を広げるようにして焼いていく。
ジューッという小気味良い音と共に、上質な脂が溶け出し、そこに甘辛い割り下を一気に流し込む。
醤油と砂糖が焦げる極上の香りが、部屋中にぶわっと広がった。
「うわぁ……すっごくいい匂い……!」
おせち料理などのあっさりとした和食が続いていたこともあり、この暴力的なまでに食欲をそそる匂いに、凛は目をキラキラと輝かせていた。
「さあ、お肉が硬くならないうちに食べて!」
おばさんの合図で、溶いた生卵に熱々の牛肉をたっぷりと絡めて、そのまま口に運ぶ。
「……んん〜っ!!」
凛が、両手で頬を押さえてとろけるような声を上げた。
甘辛いタレを吸った柔らかいお肉が、口の中でスッと消えていく。ネギや焼き豆腐にもしっかりと味が染み込んでいて、箸が止まらない。
四人で鍋をつつき合いながら、笑顔の絶えない、本当に温かい食卓だった。
「ふぅ、ごちそうさまでした。」
食後の一息をついた後、俺は立ち上がって浴室へと向かった。
ここに来てから何から何までやってもらってばかりだ。これくらいは、という気持ちだった。
洗面所を抜け、浴室のドアを開ける。
少しひんやりとしたタイル張りの床。
俺はスポンジと洗剤を手に取り、バスタブの前にしゃがみ込んだ。
「…………」
その瞬間。
俺の動きが、ピタリと止まった。
鼻を突く、浴室特有の湿った匂い。冷たい空気。
それが引き金となり、俺の脳内に、ずっと蓋をしてきた『あの時』の記憶が、濁流のように押し寄せてきた。
両親の死が原因ではない。
あの頃、俺が受けていた、とんでもなく悪質で、陰湿で、逃げ場のない凄惨ないじめ。
誰にも助けを求められず、心が完全に壊れきってしまった俺は……この場所で、冷たい水を張り、全てを終わらせようとしたのだ。
『――――ッ』
心臓が、早鐘のように打ち始める。
息がうまく吸えない。視界がぐにゃりと歪み、当時の暗い絶望と、息が詰まるような冷たい水の感覚がフラッシュバックする。
持っていたスポンジが、震える手からポロリとこぼれ落ちた。
動けない。
呼吸が浅くなり、冷や汗が背中を伝う。
その時だった。
「…………朝陽、くん」
背後から、パタパタという軽い足音が聞こえ。
次の瞬間、俺の背中に、温かくて柔らかい感触がピタリと張り付いた。
「っ……凛……?」
背中から腕を回し、俺の胸元でぎゅっと両手を組んで、彼女が力強く俺を抱きしめていた。
震える俺の背中を見て、何かを察してくれたのだろう。
いつも使っているシャンプーの甘い香りが、浴室の冷たい空気を塗り替えていく。
「……大丈夫。私がいるよ」
耳元で囁かれたその声は、少しだけ震えていて、けれど何よりも優しく、慈愛に満ちていた。
余計な言葉はいらなかった。
背中から伝わってくる彼女の確かな体温と、力強い抱擁。
それだけで、俺の中に渦巻いていた暗くて冷たい記憶が、春の雪解けのように、ゆっくりと、確実に溶かされていくのが分かった。
「……ああ」
俺は、胸元に回された凛の小さな両手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「ごめん。……もう、大丈夫だ」
深く、長く息を吐き出す。
振り返らなくてもわかる。
今の俺には、こんなにも愛おしくて、俺を全力で抱きしめてくれる人がいる。
親戚の家での、少しだけ重たかった過去の記憶は、彼女の温もりによって、少しずつ過去のものとして昇華されていった。