作品タイトル不明
第371話:君と向かう、少し重たい足取り
実家からたっぷりと持たせてもらったおせちの余りや、カニの身を贅沢に使った晩ご飯を終えた夜。
お風呂から上がり、歯を磨いた俺はリビングのソファに腰掛けて、一人でスマホの画面を見つめながら口元を押さえていた。
「ふっ……あははっ」
込み上げてくる笑いを必死に殺していると、歯を磨き終わったばかりの凛が、パタパタと足音を立てて近づいてきた。
「……朝陽くん。何見て、そんなにニヤニヤしてるの?」
「ん? いや、おばあ様からまたLINEが来ててさ」
俺が正直に答えると、凛は「嫌な予感がする」と言いたげな顔で、俺の隣に座り込んでスマホを覗き込んできた。
画面に表示されていたのは、追加で送られてきた凛の幼少期の写真だった。
しかも今回は、公園で派手に転んで大泣きしている顔や、口の周りに泥をつけて変顔をしている、なんともパンチの効いたものばかりだ。
「っ!? や、やめて! 見ないで!」
自分の黒歴史(?)を直視した凛は、顔を真っ赤にして俺の手からスマホを奪い取ろうとした。
「いいだろ、可愛いんだから」
「可愛くないっ! 返してぇ!」
俺がスマホを持った手を高く上げると、凛はそれにしがみつくようにして身を乗り出してきた。
その時だった。
「あっ」
「おわっ」
バランスを崩した凛の体が、俺に覆い被さるように倒れ込んできた。
俺はとっさに背中からソファに倒れ込み、その上に凛が乗っかるような形――いわゆる、押し倒されるような体勢になってしまった。
「…………っ」
「…………っ」
至近距離。
鼻先が触れ合いそうなほど近くに、お風呂上がりの少し上気した凛の顔がある。
黒髪から、いつも俺が使っているのと同じシャンプーの甘い香りがふわりと漂ってきた。
ドクン、ドクン、と。
自分のものか、彼女のものか分からない心臓の音が、やけに大きく耳に響く。
凛は驚いたように目を見開き、顔を林檎のように真っ赤に染めて固まっていた。
俺の頭の中でも警鐘が鳴り響いていたが、どうにか必死に理性をかき集める。
俺は、上に乗っかっている凛をどかすことはせず、そのまま彼女の細い腰と背中に腕を回し、仰向けのままギュッと腕の中に抱き寄せた。
「っ……あ、朝陽くん……?」
「ほら、もう寝るよ」
俺は彼女の体をしっかりと抱えたまま、勢いをつけて立ち上がった。
そして、凛をヒョイっとお姫様抱っこした状態で、そのままベッドへと向かって歩き出す。
「わ、わわっ……!」
突然のことに、凛は驚いたように俺の首に腕を回してしがみついてきた。
ベッドにそっと下ろすと、凛は完全にゆでダコのように真っ赤になり、布団の端をきゅっと握りしめて大人しくなった。
「……俺は、床で寝るからな」
「ダーメ。離さない」
ベッドに寝かせた後、俺は自分が床に敷いた布団に行こうとしたのだが、凛が俺の服の裾をぎゅっと掴んで離さなかった。
実家での充電不足がまだ解消されていないらしい。
結局、俺は彼女の我儘に折れて、いつも通り二人でくっついて一つのベッドで寝ることになった。
布団に入り、部屋の電気を消す。
暗闇の中、俺の腕の中にすっぽりと収まった凛が、ぽつりと呟いた。
「ねえ、朝陽くん」
「ん?」
「明日……おばさんたちに会えるの、楽しみだね」
その言葉に、俺は少しだけ目を丸くした。
明日は、俺の親戚――両親がいない俺を、親代わりとして面倒を見てくれたおばさん夫婦の家へ、新年の挨拶に行く予定だった。
俺にとってあの家は、もちろん感謝してもしきれない場所だけれど、同時に色々と複雑な思いや、少しの気後れを抱いてしまう場所でもある。
でも、凛から出た「楽しみ」という真っ直ぐで新鮮な感情に触れた瞬間。
俺の胸の奥にあった重たい鉛のようなものが、すっと溶けて軽くなるような気がした。
「……そうだな。俺も、楽しみだよ」
「明日は、何時に出るの?」
「うーん……昼前くらいに出発して、お昼に着けばいいかなって思ってる」
「ふふっ。朝陽くんにしては、ずいぶんと無計画だね。いつもなら、何時の電車に乗ってって、分刻みで決めるのに」
凛の言う通りだ。
正直に言えば、気が進まないという本音が、スケジュールの甘さに表れていたのかもしれない。
「……ばれたか。でも、大好きなおばさん夫婦に、凛をちゃんと紹介したいって気持ちは本当だから。明日、頑張って行ってこよう」
「うん。私も、朝陽くんの大切な人に会えるの、すごく嬉しい」
凛が腕の中で、俺の胸にすりすりと額を押し付けてくる。
その温もりに安心して、俺たちは静かな眠りへと落ちていった。
翌朝。
特に急ぐ予定もないため、俺たちは二人でくっついたまま、午前9時頃までゆっくりと寝坊を満喫した。
「ふわぁ……よく寝たぁ」
「おはよう、凛。朝ご飯にするか」
キッチンに立ち、今日もおばあ様に持たせてもらった食材を活用する。
昨日も食べたはずなのに、全く飽きのこないお雑煮だ。
鍋でカニの殻を煮出して取った極上の出汁に、ほんの少しの醤油と塩で味を整える。そこに、こんがりと焼いたお餅と、細かくほぐしたカニの身、そして彩りの三つ葉をたっぷりと乗せた。
「いただきます!」
向かい合って座り、熱々のお雑煮を口に運ぶ。
「んん〜っ……! カニのお出汁がすっごく濃厚! お餅にとろっと絡んで、最高に美味しい……」
「三つ葉の香りもいいアクセントになってるよな。おばあ様が持たせてくれたお餅、すごく伸びが良くて美味い」
毎日のように一緒にご飯を食べているのに、「美味しいね」と笑い合えるこの時間は、何度繰り返しても色褪せることがない。
朝食を終え、俺たちは一泊分の荷物を持ってアパートを出発した。
凛の実家がある町とは逆方向の電車に乗り込む。
ガタン、ゴトンと電車に揺られるにつれて、窓の外の景色が、俺にとって見覚えのある、少しだけ息苦しさを感じるものへと変わっていく。
俺の横顔に緊張が混じっていることに気づいたのか。
隣に座っていた凛が、何も言わずに、俺の右手をそっと両手で包み込んでくれた。
彼女の小さな手から伝わってくる温もりが、「大丈夫だよ」と俺を励ましてくれているようだった。
俺は、その手を少しだけ強く握り返した。
そして、お昼頃。
目的の駅に到着し、改札を抜ける。
「あ……朝陽くんだよね?」
少し離れた場所から、よく通る明るい声が聞こえた。
顔を上げると、そこには、ビシッとスーツを着こなしたおじさんと、少し派手な色のコートを着たおばさんが、笑顔で大きく手を振っていた。
「朝陽ー! こっちこっち!」
俺は小さく息を吸い込み、凛と顔を見合わせてから、二人の元へと歩き出した。