作品タイトル不明
第350話:安堵と、気づき
案内された高級感漂う店内は、外の市場の喧騒が嘘のように静かで、落ち着いたお香の香りがふわりと漂っていた。
温かいお茶が運ばれてきて、それぞれが一息ついたタイミング。
源蔵さんは未だにどこか夢でも見ているような顔で、時折俺と凛をチラチラと見ては、小さくため息をついている。
そんなおじい様の様子を見て、おばあ様は湯呑みをそっとテーブルに置き、静かに口を開いた。
「……凛が一人暮らしを始めたばかりの頃」
ぽつりと落とされたその声は、静かな個室によく響いた。
「正直、私はあなたを恨んでいました」
「……っ」
おばあ様の真っ直ぐな言葉に、源蔵さんの肩がビクッと跳ねる。
凛が、親元を離れて遠くの高校へ進学し、一人暮らしを始めた理由。
それは、凛が『イラストレーターになりたい』という夢を持った時、誰よりも孫を溺愛していた源蔵さんが「将来が安定しない」と猛反対したからだ。
「あなたが、凛のイラストのお仕事に反対さえしなければ……私は今も、凛と一緒に暮らせていたんだから」
決して声を荒らげているわけではない。
けれど、その静かな声色には、当時、最愛の孫娘と離れ離れになってしまったおばあ様の深い悲しみと、寂しさが滲んでいた。
「……」
源蔵さんはバツが悪そうに視線を泳がせ、深く刻まれた眉間のシワをさらに寄せて俯いた。
凛の将来を本気で心配しての、不器用な愛情だったのは間違いない。だが、その結果として家族の間に深い溝を作ってしまった後悔が、その背中から痛いほど伝わってくる。
「……確かに。あの頃はお前……まったく口をきいてくれない時期があったな……」
絞り出すように呟いた源蔵さんに、おばあ様はフフッと、今度はとても優しく、温かい笑みをこぼした。
「ええ。でもね、今は違うわ」
「……母さん?」
「凛が一人暮らしをしたおかげで、こうして瀬戸くんと出会うことができたんだもの」
おばあ様の慈愛に満ちた視線が、俺と凛へと向けられる。
「あなた、今の凛の顔をご覧なさい」
「……っ」
促されるままに、源蔵さんは弾かれたように顔を上げ、俺の隣に座る凛の顔をまじまじと見つめた。
源蔵さんの瞳が、わずかに揺れる。
きっと源蔵さんの脳裏に浮かんでいたのは、イラストの仕事を反対されて喧嘩になり、凛が家を出ていった日のことだろう。
夢を真っ向から否定され、大粒の涙をこらえながら悲しそうに背を向けた孫娘の姿。たった一人で遠い街へ旅立っていった彼女の、孤独で傷ついた表情を。
源蔵さんの胸には、その時の光景がずっと後悔のトゲとして刺さっていたに違いない。
けれど今の彼女の頬は、ほんのりと桜色に色づき、健康的で、何よりその表情には年相応の柔らかく幸せそうな光が満ちている。
クリスマス前に実家へ帰った時も、源蔵さんはきっと、その見違えるような変化に気づいていたはずだ。
「……そうか。この間会った時、ひどく顔色が良くなっていたから安心したんだが……あれは、朝陽くんのおかげだったのか……」
「ええ。こんなに幸せそうな凛を見るのは初めてよ」
おばあ様は優しく微笑み、今度は俺の方へと視線を向けた。
「顔色もすごくいいわね。毎日、栄養満点のご飯を作ってくれているのね」
「あ……はい。料理を作るのが好きなので」
俺が少し照れくさくて頷くと、おばあ様はさらに源蔵さんへと言葉を続ける。
「そうそう。夏に凛の部屋のクーラーが壊れたこともあってね。あの時は、瀬戸くんが色々と助けてくれたのよ」
「なっ……クーラーが!? わしの知らないうちに、そんなことがあったのか……」
猛暑の中でクーラーが壊れるという緊急事態に、自分が蚊帳の外だったことを知り、源蔵さんは目を丸くして肩を落とした。
そんな源蔵さんを真っ直ぐに見つめ返し、隣で凛がはっきりとした声で告げる。
「うん。朝陽くん、すっごく私を助けてくれてるんだよ。美味しいご飯を作ってくれて、お仕事も応援してくれて……私、今、すっごく幸せなの」
凛の口から紡がれた、飾らない心からの言葉。
源蔵さんは、目に入れても痛くないほど溺愛している孫娘のその言葉を聞いて、少しだけ寂しそうに、けれど深く安堵したように目を細めた。
「凛……。そうか。わしが意地を張っている間に、お前はこんなに……」
俺は、テーブルの下で震えるように俺の袖を掴んでいた凛の小さな手を、自分の大きな手でそっと包み込むように握りしめた。
俺の手のひらから伝わる凛の体温は、とても温かくて、愛おしい。
(……この人を守るのは、俺だ)
俺は姿勢を正し、源蔵さんの目を一切逸らさずに見つめ返した。
「……僕も、凛さんと一緒にいられて、すごく幸せです」
「……っ」
ただのお節介な近所の男ではなく、彼女の隣に立つに相応しい一人の男として。
俺は一切の誤魔化しなく、自分の本心を源蔵さんにぶつけた。
「凛さんは、優しくて、一生懸命で、俺の作ったご飯をいつも本当に美味しそうに食べてくれます。……俺は、凛さんが隣の部屋に住んでくれて、俺と出会ってくれて、本当によかったと心から思っています」
俺の言葉に、凛がハッとして俺の横顔を見上げる気配がした。
テーブルの下で、彼女の小さな手が嬉しそうに俺の指をきつく握り返してくる。
静まり返った個室の中。
一見すればどこにでもいる普通の高校生に見えるかもしれない。
けれど、大切な孫娘を任せるに足る、誠実で芯の通った想いだけは伝わってほしかった。
源蔵さんはしばらくの間、言葉を失ったように俺の真っ直ぐな視線を受け止め――やがて、何かを噛み締めるように、深く、深く頷いた。