作品タイトル不明
第349話:おじいちゃんと、ご挨拶
市場のど真ん中。
行き交う人々の喧騒の中、俺と凛、そして源蔵さんの三人だけが、まるで時を止められたかのように硬直していた。
俺の隣で、信じられないものを見るように目を見開いている凛。
そして、その凛を見て、口をあんぐりと開けたまま石化している源蔵さん。
(やばい、どうする。これ、どうしたらいいんだ……)
俺の脳内で冷や汗が流れる中、緊迫した空気をぶち破るように、のんびりとした、けれど品のある女性の声が響いた。
「――あら、凛じゃない」
「え……お、おばあちゃん……?」
凛がハッとして声のした方へ顔を向ける。
そこには、落ち着いた色合いの着物に羽織を合わせた、優しそうな雰囲気の老婦人が立っていた。
(おばあ様……!)
俺もよく知っている、凛のおばあ様だ。
おばあ様が一緒にいるということは、俺が電車で知り合ったこの源蔵さんという人は、本当におばあ様の旦那さん……つまり、凛のおじい様ということになる。
(……言われてみれば、どことなく面影がある。クリスマス前に電車で初めて会った時、『誰かに似てるな』と思ったのは、凛だったのか……)
状況を察したらしいおばあ様は、石化している源蔵さんと、俺の隣で固まっている凛、そして俺が抱えている発泡スチロールの箱を順番に見比べると、「あちゃー」という顔をして、けれどどこか面白そうにふふっと口元を隠した。
(……ここは、俺からいくしかない)
俺は意を決して、石化し続けている源蔵さんに向かって、一歩前に出た。
「ご無沙汰しております、源蔵さん。……腰の具合は、もう大丈夫ですか?」
クリスマス前、電車の中で席を譲り、一緒に昔の話で盛り上がったあの日の出来事を交えて、あえて落ち着いたトーンで声をかける。
「……お、おお。こないだはありがとうな。あの後、すぐに良くなって……って、これはどういうことなんだ。なんで朝陽くんと、うちの凛が一緒に市場を歩いてるんだ」
俺の言葉に条件反射で答えかけた源蔵さんだったが、ハッと我に返り、ひどく混乱した様子で俺と凛を交互に見比べた。
「おじいさん、市場のど真ん中で大きな声を出さないの。みっともないわよ」
動揺する源蔵さんを、おばあ様がピシャリとたしなめる。
「仕方ないわね。凛、もう紹介しちゃいなさい」
「……っ、うん」
おばあ様の助け舟に、凛は小さく深呼吸をして、ギュッと拳を握りしめた。
そして、逃げることなく源蔵さんを真っ直ぐに見つめ返し、はっきりとした声で告げた。
「……わかった。おじいちゃん、紹介するね。こちら、私の彼氏の、瀬戸朝陽くんです」
「…………っ」
源蔵さんの顔から、サァァッと血の気が引いていくのが見えた。
俺は小脇に抱えていた発泡スチロールの箱を足元に置き、居住まいを正して、深く、丁寧にお辞儀をした。
「改めまして、瀬戸朝陽と申します。凛さんとは、真剣にお付き合いさせていただいております。……本日はこのような形でのご挨拶となってしまい、申し訳ありません。よろしくお願いいたします」
頭を下げたまま、数秒。
しかし、源蔵さんからの返事はない。
恐る恐る頭を上げてみると、源蔵さんは再び口をあんぐりと開け、完全に魂が抜けたような顔でポカーンとしていた。
「あらあら、完全にショートしちゃったわね。ここで立ち話もなんだから、お店に入りましょうか。ちょうど、お昼にしようと思っていたのよ」
おばあ様がクスッと笑いながら提案し、俺たちはそのまま4人で、市場の中にある海鮮丼のお店へと向かうことになった。
「……」
案内されたのは、市場の奥まった場所にある、見るからに格式の高そうなお店だった。
テーブル席に向かい合って座る形になり、俺と凛の正面に、源蔵さんとおばあ様が座っている。
(うわぁ……メニューの値段、俺がさっきまで見てた食堂の倍くらいするぞ……)
分厚い木のメニュー表をチラリと見て、俺は内心で少しだけビビっていた。
高校生同士のデートでは絶対に入らないような、高級な海鮮丼のお店だ。
場違い感に少しそわそわしてしまうが、今はそれよりも目の前の問題の方が重要だ。
席に着き、温かいお茶を一口飲んで、ようやく頭が冷えてきたらしい源蔵さんが、静かに口を開いた。
「……まさか、あの時の朝陽くんが、凛の彼氏だったとはな……。母さん、お前、知っていたのか」
「ええ、知っていたわよ」
おばあ様は、高級そうなお湯呑みを両手で持ちながら、涼しい顔であっさりと肯定した。
「なんで言ってくれなかったんだ」
「言ったら、絶対にお邪魔しに行くでしょ。凛がせっかく見つけた素敵なお相手なんだから、水を差すのはよくないでしょ」
「うぐっ……」
おばあ様の落ち着いた、けれど有無を言わせない正論に、源蔵さんはぐぬぬと言葉に詰まり、頭を抱えてしまった。
どうやら、この夫婦のパワーバランスは完全におばあ様の方が上らしい。
「それにしても、世間って狭いわねぇ。まさかここで鉢合わせるなんて」
「ふふっ、そうだね。私もびっくりしちゃった」
おばあ様と凛は、気まずそうにしている俺たち男衆をよそに、和やかにメニューを選び始めている。
(……とはいえ、やっぱり緊張するな……)
俺は姿勢を正したまま、自分の膝の上でギュッと手を握りしめた。
その時。
「……?」
テーブルの下で、俺の着ているコートの袖口を、ツンツンと引っ張る感覚があった。
視線を下に向けると、凛の小さな手が、俺の袖口をギュッと強く掴んでいる。
顔は平然を装っておばあ様と話しているが、凛も内心では、おじいちゃんが怒り出さないか、俺が嫌な思いをしないかと、すごく緊張して不安だったのだ。
(……可愛いな、ほんとに)
俺はテーブルの下で、袖を掴んでいる彼女の小さな手を、自分の大きな手でそっと包み込むように握り返した。
『大丈夫だ、俺に任せろ』と伝えるように親指で撫でてやると、凛の肩からスッと力が抜け、安心したように俺の手をギュッと握り返してくれた。
(……よし。絶対に、このおじいちゃんに認めてもらうぞ)
テーブルの下で繋いだ彼女の体温に勇気をもらい、俺は改めて、目の前で頭を抱えている源蔵さんへと向き直った。