作品タイトル不明
第339話:帰りの電車と、ぽけぽけ令嬢
帰りの電車内は、暖房がこれでもかというほど効いていて、座席に座っているとじんわりと汗をかきそうなくらいだった。
ガタン、ゴトンという規則正しい揺れが、お腹が満たされた体を心地よく刺激する。
俺の右肩には今、心地よい重みが乗っていた。
「……んぅ」
「寝てていいぞ。駅に着いたら起こすから」
「うん……あさひくん……」
俺の肩に頭を預けたまま、凛はスヤスヤと静かな寝息を立て始めた。
よほど疲れていたのだろう。
今日はイルミネーション会場でたくさん歩いたし、何より色んなことがあって、お互いに感情の動きが大きかった。
俺は彼女を起こさないように、少しだけ背筋を伸ばして姿勢を固定する。
そして、コートの陰で繋がれたままになっている小さな手を、解けないように優しく握り直した。
「……凛、着いたぞ。降りるよ」
「んん……」
最寄り駅に着き、小さく肩を揺すって起こす。
寝ぼけ眼をこすりながら立ち上がった凛の手を引き、ゆっくりと電車を降りた。
改札を抜けて外に出ると、深夜に近い冬の冷たい空気が肌を刺す。
しかし、凛はまだ半分夢の中にいるらしく、俺と繋いだ手に引かれるまま、とてとてと覚束ない足取りで歩いていた。
「……危ないな。ほら、乗れ」
「んぅ……? おんぶ……?」
「ああ。その調子じゃ、家に着く前に絶対に転ぶだろ」
俺が背中を向けてしゃがみ込むと、凛は「えへへ……」とだらしない声を出して、大人しく俺の背中に乗ってきた。
膝の裏に腕を回して立ち上がると、背中に柔らかい重みと、じんわりとした確かな温もりが伝わってくる。
「……あさひくんの背中、おっきい……」
「お前は軽すぎるんだよ。もっと飯食え」
「食べてる…」
凛は俺の首元に両腕を回し、コテンと頭を乗せてきた。
鼻先をくすぐる、冷たい冬の空気と混ざり合った甘いシャンプーの匂い。
耳元で聞こえる規則正しい寝息を聞きながら、俺はゆっくりと夜道を歩き、自分のマンションへと帰り着いた。
「ただいま」
「……んぁ、おかえりなさぁい……」
(まだ寝ぼけてるな……。)
鍵を開けて部屋に入ると、暖房の切れた部屋は外と同じくらいひんやりと冷え切っていた。
俺は背中から凛を下ろすと、まだうとうとしている彼女を、そのままリビングのソファにコロンと寝転がらせた。
「寒いから、コートは着たままでいいぞ。今お風呂沸かすからな」
「ん……はぁい……」
ソファの上で小さく丸まる白いコートの塊を見届けてから、俺は急いで暖房のスイッチを入れ、脱衣所に向かってお風呂のお湯張りのボタンを押した。
数十分後。
『お風呂が沸きました』という電子音が、静かな部屋に鳴り響いた。
リビングに戻ると、凛はソファの上でコートに顔を半分埋めながら、スヤスヤと気持ちよさそうに眠っていた。
「……凛。お風呂沸いたぞ」
「んぅ……?」
「ほら、コート脱いで。体が冷えないうちに、先に風呂入ってきな」
肩をトントンと叩いて促すと、凛はのそりのそりと体を起こし、目を擦りながら俺を見上げた。
「えー、朝陽くんと一緒がいいー……」
「ばっ、おま……っ! 寝ぼけて変なこと言うな! ほら、風邪引くから早く!」
まだ半分夢の中にいて、ふにゃふにゃと甘えてくる凛の背中を押し、半ば強引に脱衣所へと押し込む。
まったく、付き合い始めてからというもの、この『氷の令嬢』のガードがどんどん緩くなっている気がする。
しばらくして、脱衣所のドアが開く。
「あがったよぉ……」
ほんのりと上気した白い頬と、濡れた髪。
リビングに、いつも嗅ぎ慣れた甘いシャンプーの香りがふわりと広がった。
「おう、冷えないうちに髪乾かして布団入ってろ。俺もパパッと入ってくる」
「はーい」
俺も急いで風呂を済ませ、さっぱりとした体で寝室へと向かった。
俺が風呂からあがった頃には、時刻は21時を回っていた。
部屋の明かりを消し、小さな間接照明だけをつける。
今日は疲労回復のマッサージはなし。
俺はパジャマ姿のまま、すでに分厚い羽毛布団の中で丸くなっている凛の隣へと潜り込んだ。
「……ん、朝陽くんだ……」
俺が布団に入った途端、待っていましたとばかりに凛がすりすりと擦り寄ってくる。
冷え性な彼女の足先が、俺の足にピタリとくっついた。
「冷てっ。お前、ちゃんと温まったのか?」
「温まったよ……でも、朝陽くんの体温の方が気持ちいい……」
完全に脱力しきった、ぽよぽよの状態。
凛は俺の腕の中にすっぽりと収まるようにして目を閉じた。
「……今日、楽しかったな」
「うん……。ご飯も美味しかったし……イルミネーションも、すっごく綺麗だった」
「来年も、一緒に行こうな」
「絶対だよ……約束、だからね……」
徐々に言葉と寝息の境目が曖昧になっていく。
俺も睡魔に襲われ、ゆっくりと目を閉じようとした、その時だった。
「……あさひくん」
「ん?」
凛が、目を閉じたまま、俺のパジャマの胸元をクイッと引っ張った。
そして、ほんの少しだけ顔を上げ、チュゥッと小さく唇を突き出してきたのだ。
「……ちゅー」
あまりにも無防備で、破壊力抜群なおねだり。
展望スペースで見せた少し大人びた余裕なんてどこにもない、ただ甘えたいだけの子供みたいな仕草だった。
「……っ、お前なぁ……」
心臓が跳ね上がるのを抑えきれず、俺は苦笑しながら少しだけ首を傾げた。
そして、突き出されたその柔らかい唇に、チュッ、と軽い音を立ててキスを落とした。
「……んふふ。おやすみなさい……」
「ああ。おやすみ、凛」
満足げな笑みを浮かべた凛は、再び俺の胸元におでこをぐりぐりと押し付け、今度こそ本当に深い眠りへと落ちていった。
規則正しい寝息が、静かな部屋に響く。
俺は、腕の中で安心しきっている彼女のサラサラな髪を、愛おしくてたまらない気持ちでゆっくりと撫でた。
俺が作ったご飯を「美味しい」と食べて。
風呂から上がれば、同じシャンプーの匂いをさせて。
こうして当たり前のように同じベッドで、お互いの体温を感じながら眠りにつく。
ふと、冷静になって今の状況を振り返ってみる。
(……ていうか、これ)
薄暗い部屋の中、俺は一人で天井を見つめた。
(これじゃあもう、完全に一緒に住んでるのと変わらないよな……?)
付き合って一ヶ月半。
初めてのキスを終えた聖夜の夜に、俺は今更すぎる事実に気づいてしまい、一人で限界まで顔を赤くして、そっと布団を頭まですっぽりと被った。