作品タイトル不明
第338話:キスの後の、恋人たちの熱々ディナー
静かな展望スペース。
お互いの唇を離した後も、俺たちは身を寄せ合い、体温を確かめ合うように抱きしめ合っていた。
「……朝陽くん」
「ん?」
「えへへ……」
俺の胸に顔を埋めながら、凛が幸せそうに小さく笑う。
俺たちが告白を経て付き合い始めてから、もう一ヶ月半が経つ。
だが、こうして言葉だけでなく、ちゃんとしたキスを交わしたのは今日が初めてだった。
恋人としての階段をまた一つ上った実感が、じんわりと胸の奥に広がっていく。
その、極上で甘い空気の中——。
『きゅるるるるぅ……』
可愛らしい、けれどもしっかりとした腹の虫の音が、静寂に包まれた展望スペースに響き渡った。
「……っ!!」
俺の腕の中にいた凛の体が、ビクッと硬直する。
「あ、あの、これは……その……っ」
みるみるうちに耳の先まで真っ赤にした凛は、俺のコートから顔を離すと、両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまった。
「うぅぅ……っ、嘘でしょ……せっかくのムードが、ぶち壊しだぁ……っ」
「ははっ。実は俺もすげぇ腹減った」
消え入りそうな声で悶絶する凛。
学校では『氷の令嬢』と呼ばれている彼女の、俺の前でしか見せないこういう隙だらけなところが、たまらなく愛おしい。
しゃがみ込む彼女の目線に合わせて腰を下ろし、俺はその頭を優しく撫でた。
「……ほんと?」
「ああ。ほら、晩飯食べに行こうぜ」
差し出した俺の手を、凛は恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに握り返してきた。
展望スペースから、メイン広場へと戻る道。
俺たちの手は、当然のように指と指を深く絡ませる『恋人繋ぎ』で結ばれていた。
付き合い始めてから、外を歩く時はいつもこうして手を繋いでいる。
けれど、先ほどキスを交わしたばかりのせいか。
繋いだ手から伝わる彼女の体温が、いつも以上に熱く、そして意識の奥深くまで響いてくるような気がした。
「……すっごい人だな」
「うん。やっぱりクリスマス当日の夜だね」
駅周辺に向かうと、予想通りというか、どのレストランもチェーン店も、ディナーを楽しむカップルや家族連れで長蛇の列ができていた。
「うーん、どこも満席みたい。どうしようか……」
「そうだな……」
寒空の下で待つのは、凛の体が冷えてしまう。
俺は少しだけ記憶を探り、ある場所を思い出した。
「そうだ。凛、行きに寄ったあのカフェ、覚えてるか?」
「え? うん、駅から少し離れたところにある、落ち着いた雰囲気の……あっ」
「あそこなら、中心地から少し外れてるし、パスタとかピザのメニューもあったはずだ。行ってみよう」
「うんっ! 朝陽くん、さっすが……!」
パァッと顔を輝かせる凛の手を引き、俺たちは人混みをスマートに抜け出して、思い出のカフェへと向かった。
運良く、カフェの奥にあるゆったりとしたソファ席が一つだけ空いていた。
暖房の効いた店内に腰を下ろし、コートとマフラーを外す。
「ふぁ〜……あったかいね」
「そうだな。外は結構冷え込んでたし」
メニューを開き、俺たちは『マルゲリータピザ』と『濃厚トマトクリームパスタ』を注文してシェアすることにした。
温かいおしぼりで手を拭きながら、ふと、凛と視線が合う。
数時間前、イルミネーションを見る前にここに座っていた時は、二人で「付き合って半年間の思い出」を語り合っていた。
そこから展望スペースに行き、初めてのキスをして、また同じ席に戻ってきたのだ。
それを思い出したのか、凛は少しだけ照れくさそうに視線を逸らし、口元を緩めた。
「……なんか、数時間しか経ってないのに、すごく昔のことみたい。私たち、また少しだけ進めたね」
「……そうだな」
俺もなんだか照れくさくなって、出されたお冷のグラスに口をつけた。
やがて、食欲を強烈に刺激するガーリックとチーズの香りと共に、料理が運ばれてきた。
「お待たせいたしました。マルゲリータと、トマトクリームパスタになります」
焼きたてのピザ生地の上で、モッツァレラチーズがグツグツと音を立て、フレッシュなバジルの香りが湯気と共に立ち上る。
パスタの方は、分厚いベーコンがゴロゴロと入り、オレンジ色の濃厚なソースが平打ち麺にしっかりと絡みついていた。
「わぁ……っ、美味しそう!」
先ほどまでの照れはどこへやら、凛の瞳がキラキラと輝く。
「よし、冷めないうちに食べようぜ」
「うんっ! いただきます!」
凛は早速フォークを手に取り、パスタをくるくると巻き取った。
そして、フーフーと息を吹きかけて冷ました後。
パクリ、と自分の口に入れる……かと思いきや。
「朝陽くん。……あーん」
少しだけ頬を赤く染めながら、パスタを巻いたフォークを、俺の口元へと差し出してきた。
恋人同士になってから、こういうシェアや『あーん』は何度かしてきた。
だが、つい数十分前に重なり合ったばかりの唇を意識してしまい、俺の心臓がドクンと大きく跳ねる。
「……サンキュ」
俺は少し前傾姿勢になり、差し出されたパスタをパクリと口に含んだ。
「んっ……美味い。トマトの酸味と生クリームのコクが絶妙だな。ベーコンの旨味もしっかり出てる」
「ほんと? じゃあ私も……」
凛も同じフォークを使ってパスタを口に運び、「ん〜〜っ!」と頬に手を当てて幸せそうに目を細めた。
「美味しいっ! ソースがすっごく濃厚!」
その、自分の作ったご飯を食べている時と同じように無防備で幸せそうな笑顔を見ると、俺の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ピザの方も冷めないうちにな」
俺はピザカッターで切り分けられたマルゲリータの一切れを持ち上げ、凛のお皿に乗せてやった。
とろとろに溶けたモッツァレラチーズが、どこまでも長く伸びる。
「わっ、チーズすごい! いただきまーす」
凛はピザを両手で持ち、大きな一口でかぶりついた。
パリッとした香ばしい生地の食感の後に、熱々のチーズとトマトソースの旨味が口いっぱいに広がる。
「はふっ、はふっ……んんぅ〜、最高……」
「ははっ、口の周りにソースついてるぞ」
俺はペーパーナプキンを手に取り、凛の口元を優しく拭ってやる。
「えへへ……ありがとう。……ねえ、朝陽くん」
「ん?」
凛は、俺の持つフォークをチラリと見てから、悪戯っぽく微笑む。
「……私には、してくれないの?」
「は? してくれないって……」
そこでようやく、彼女が何を要求しているのか察しがついた。
「いや、いくら奥の席とはいえお店の中だし……さっきお前がやったのも、結構ギリギリだったんだぞ」
俺が周囲を気にして小声でたしなめると、凛はむすっと口を尖らせた。
「えー……。恋人の特権、私だけ使って朝陽くんが使わないのは不公平だと思うな」
「なんつー理屈だよ……」
周囲の目を気にしつつも、そんな風に真っ直ぐ甘えられて、断れるはずがなかった。
俺は小さくため息をつき、周囲に人がいないことを再確認してから、観念して自分のフォークにパスタを巻き取った。
フーフーと軽く息を吹きかけて冷ましてから、テーブル越しにそっと差し出す。
「……ほら、口開けろ。あーん」
「あーんっ……」
凛は待ってましたとばかりにパクリと口に含み、「ん〜〜っ!」と今日一番の満面の笑みを咲かせた。
「んふふ……やっぱり、朝陽くんに食べさせてもらうと、何倍も美味しいね。えへへ……」
「……おま、そういうことサラッと言うの、ほんと自覚持てよ……」
顔を赤くしてそっぽを向く俺を見て、凛はさらに楽しそうにクスクスと笑う。
外の寒さを忘れるほど温かい店内で、美味しい料理と、大好きな彼女の甘い笑顔。
俺たちにとっての初めてのクリスマスディナーは、お腹も心も限界まで満たされる、最高に幸せな時間だった。