作品タイトル不明
第327話:階段の悪夢と、手を離さない約束
——『朝陽くん、早く早く!』
俺と凛はショッピングモールに来ていた。
どこからどう見ても完璧なデート服に身を包んだ彼女は、いつもよりずっとはしゃいでいて、ひらひらとチェックのスカートを揺らしながら先を歩いていた。
『ほら、こっちだよ!』
振り返り、太陽みたいな笑顔で俺を呼ぶ。
しかし、彼女が向かっていたのは、下へと続く長いエスカレーターではなく、広い踊り場のある大階段だった。
『おい、凛! 走ると危ないぞ!』
『大丈夫だもん、早く——あ』
階段を一段、二段と軽快に降りようとした凛の足元が、ふっと空を切った。
体がバランスを崩し、宙に浮く。
スローモーションのように倒れていく彼女の姿に、俺の心臓が凍りついた。
「——危ないっ、凛!」
ハッと、勢いよく目を開けた瞬間。
俺の腕は無意識のうちに、胸の中にすっぽりと収まっていた『温かいもの』を、力一杯きつく抱きしめていた。
「……んっ……あさひ、くん……っ?」
腕の中から聞こえた、少しだけ息苦しそうな声。
視線を落とすと、俺の腕の中ではパジャマ姿の凛が目を丸くしてこちらを見上げていた。
俺は夢の中で彼女を助けようとした勢いそのままに、現実のベッドの中で、凛の細い体を折れそうなほどの強い力で締め付けてしまっていたのだ。
「っ、ごめん! 痛かったよな……!」
慌てて腕の力を緩めると、俺の額からはじっとりと冷や汗が流れていた。
(……夢、か)
心臓が、まだ早鐘のようにドクドクと鳴っている。
夢の中で彼女の腕を引いた動きが、そのまま現実の体にも連動してしまったらしい。
「ごめんな、凛。俺、変な力入れちゃって……」
「ううん」
申し訳なさでいっぱいになる俺の頬に、凛の柔らかい両手がそっと添えられた。
「ちょっとだけ苦しかったけど……朝陽くんなら、痛くされても全然大丈夫だよ」
「凛……」
「すっごく冷や汗かいてる。……怖い夢でも見たの?」
背中をトントンと優しく叩かれながら尋ねられ、俺はさっき見た夢の内容を正直に話した。
デート中に、凛がはしゃいで階段から落ちてしまう夢を見て、すごく焦ったのだと。
すると、凛はふわりと花が咲くように微笑んだ。
「そっか。私のこと、心配してくれたんだね。ありがとう」
「いや、夢の話なんだけどさ……」
「じゃあ、決まりだね」
凛はベッドの中で体をすり寄せて、俺の胸にぴとっと額をくっつけた。
「今日のお買い物では、私が絶対に階段から落ちないように……朝陽くんが私の手、ずーっとしっかり繋いでてね?」
上目遣いでそんなことを言われてしまえば、悪夢の余韻なんて一瞬で吹き飛んでしまう。
「……たく。お前は本当に、そういうこと言うのうまいな」
「えへへ。約束だよ?」
俺は小さく息を吐き、今度は優しく、彼女の背中に腕を回して抱きしめ返した。
「ん〜〜っ……おいひい……!」
悪夢の冷や汗をシャワーで流してスッキリした後。
俺たちはリビングのテーブルに向かい合って座り、少し遅めの朝食をとっていた。
今日のメニューは『ハムとチーズのホットサンド』と『温かいコーンポタージュ』だ。
バターを塗ってカリッと香ばしく焼き上げた食パンをかじると、サクッという心地よい音と共に、中からとろとろに溶けたチェダーチーズと、旨味たっぷりのハムが顔を出す。
「チーズがとろとろで、ハムの塩気とすごく合うね……っ」
「昨日の夜にカマンベール食べたのに、全然飽きないな。チーズって凄い」
「朝陽くんが作ってくれたご飯だからだよ」
はふはふと口元を綻ばせながらホットサンドを頬張り、マグカップになみなみと注がれた熱々のコーンポタージュをこくりと飲む。
コーンの自然な甘みとミルクのコクが、冬の朝の冷えた体を芯からじんわりと温めてくれる。
学校では『氷の令嬢』なんて呼ばれている彼女が、俺の料理の前ではこうして完全に「ふにゃぁ」とだらしない笑顔を見せてくれる。この特別感が、俺にとっては何よりのスパイスだった。
「お待たせ、朝陽くん。……って、えっ」
朝食を終え、お互いに着替えを済ませて玄関に集合した時のこと。
俺の姿を見た凛が、パチクリと瞬きをして固まった。
「どうした? なんか変か?」
「う、ううん! 変じゃない! 全然変じゃないけど……朝陽くん、今日すごくカッコいい……っ」
顔を真っ赤にして口元を覆う凛。
今日は冬休み初日の特別なデートということで、俺も少しだけ気合いを入れていた。
普段のダボッとしたパーカーではなく、細身の黒いタートルネックのニットに、仕立ての良いグレーのチェスターコートを羽織っている。
「そういう凛こそ……すげぇ可愛い」
俺の視線の先には、白いフワフワのマフラーに顔を半分埋め、ベージュのダッフルコートにチェックのスカートを合わせた凛が立っている。
どこからどう見ても完璧な『冬のデート服』を身に纏った美少女に、俺の方も顔が熱くなるのを止められなかった。
「……なんか、お互い見惚れちゃってるね」
「ああ。……ほら、行くぞ」
俺はエコバッグを片手に持ち、もう片方の手を凛へと差し出した。
「ちゃんと手、繋いでおかないとな。夢みたいに階段から落ちないように」
「うんっ!」
凛は嬉しそうにパァッと顔を輝かせ、俺の手に自分の小さな手をぎゅっと絡ませてきた。
玄関のドアを開けると、12月の冷たい冬の空気が頬を刺す。
けれど、しっかりと繋がれた右手からは、絶対に離したくないと思えるほどの温かな熱が伝わってきていた。