作品タイトル不明
第323話:ドライヤーの特権と、冬休みの約束
「……ふぁ」
リビングに、凛の小さくて可愛らしいあくびの声が響く。
お風呂上がり。
俺の足の間にちょこんと座り、背中を完全に俺の胸へと預けている凛は、すっかり夢うつつのまどろみモードに入っていた。
「眠いのか? まだ髪、完全に乾ききってないぞ」
「んーん……起きてる。朝陽くんの手が温かくて、ぽかぽかするだけ……」
俺は「はいはい」と苦笑しながら、ドライヤーの温かい風を当て、凛の綺麗な黒髪を指先で優しく梳いていく。
少し大きめの、もこもことしたルームウェアに包まれた小さな背中。そこから漂ってくるのは、俺がいつも使っているのと同じ、甘くて清潔なシャンプーの匂いだ。
学校では隙のない『氷の令嬢』として振る舞い、今や俺と付き合っていることが公認になっても、外では決してこんな無防備な姿は見せない。
「この二日間、実家でもちゃんと自分で乾かしてたか?」
俺がふと尋ねると、凛は頭を揺らさないように小さく頷いた。
「うん。……でも、自分でやるのは面倒くさいし、全然落ち着かなかった」
「そんなもんか?」
「そんなもん。……やっぱり、朝陽くんにこうしてやってもらう方が、すごく安心する。……好き」
ぽつりとこぼされた、誤魔化しようのないストレートな好意。
ドライヤーの音に掻き消されてしまいそうなほど小さな声だったけれど、俺の耳にはしっかりと届いていて。
「……っ、お前なぁ」
「ふふっ」
俺が少しだけ顔を熱くして言葉を詰まらせると、凛は嬉しそうに身をよじって、さらに俺の胸へと深く体重を預けてきた。
「……ん、落ち着く……」
髪もしっかりと乾き、歯磨きを済ませた後。
俺たちは部屋の明かりを落とし、小さなベッドランプだけを点けて、当然のように一つのベッドに入っていた。
冬の夜の冷え切った空気も、分厚い羽毛布団の中で二人で身を寄せ合えば、あっという間にポカポカと温かくなる。
凛は俺の右腕を枕にして、俺の胸元にぴったりとおでこをくっつけている。
俺も彼女の背中に左腕を回し、その柔らかさと規則正しい呼吸を感じながら、ぼんやりと天井を見上げていた。
「明日と明後日、学校に行けば……いよいよ23日からは冬休みだね」
暗闇の中、凛が嬉しそうな声を上げる。
うちの高校は二学期制なので、仰々しい終業式などはなく、22日の最後の授業が終わればそのまま冬休みへと突入する。
「ああ。……冬休み、どうする? 昼間言ってた実家近くのアンティークカフェにも行きたいし、市場にも行ってみなきゃな。絶対美味い海鮮あるぞ」
「うんっ! 市場で美味しいお魚買って、また朝陽くんに料理してほしいな。……あっ、でも年末はお部屋の大掃除も手伝うね」
「助かるよ。二人でやればすぐ終わるだろ」
布団の中で身を寄せ合いながら、これからの予定を楽しく並べ合う。
なんてことのない会話だけれど、これからの冬休みを「すべて二人で過ごすこと」が前提になっているのが、くすぐったくて、ひどく嬉しい。
「あ、でも待てよ。23日から冬休みってことは……」
頭の中でカレンダーの日付を追っていた俺は、ふと、ある重要なイベントの存在に気がついた。
それは、胸の中の凛も同じだったようだ。
「……あ。24と、25日」
「……クリスマス、だな」
さっきまでのほのぼのとした空気が一変し、布団の中の温度がさらに一段階上がったような気がした。
暗闇の中でも分かるくらい、凛が上目遣いで、少しだけ期待を滲ませた瞳で俺を見つめてきている。
「ねえ、朝陽くん。……クリスマス、どうしよっか」
「凛は、どっか出かけたいところとかあるか? イルミネーションとか、ちょっといいレストランとか……」
俺の問いかけに、凛は少しだけ考えてから、俺のパジャマの胸元をきゅっと掴んで、ふるふると首を横に振った。
「ううん。人混みは疲れちゃうし……私、朝陽くんと一緒にいられれば、場所はどこでもいいよ。……あ、でも」
「でも?」
「……朝陽くんの作ったご飯が、食べたいな」
胸に顔を埋めながら、照れくさそうに呟く凛。
その健気で可愛すぎるおねだりに、俺の胸の奥がきゅんと甘く鳴った。
「……わかった。じゃあ、今年のクリスマスは『おうちパーティー』にしよう。外はカリッと、中はジューシーな骨付きのローストチキン焼いて、ケーキも予約じゃなくて俺が作ろうか。凛の好きなイチゴ、スポンジが見えなくなるくらいたっぷりのせるから」
「ほんと!? ……ふふっ、すっごく楽しみ。世界で一番幸せなクリスマスになりそう」
チキンとケーキの想像をしたのか、凛は「えへへ」と幸せそうに微笑むと、さらにぎゅっと俺に抱きつき、安心しきったように目を閉じた。
「……おやすみ、朝陽くん」
「ああ、おやすみ。凛」
それから数十分後。
俺の胸に顔を埋めたままの凛から、すー、すー、という規則正しい寝息が聞こえ始めた。
完全に深い眠りに落ちたことを確認し、俺は彼女を起こさないように、そっと慎重に左手を伸ばして枕元のスマホを手に取った。
画面の明るさを限界まで暗くして、ブラウザを開く。
『おうちパーティー』で美味しいご飯を振る舞うのは大前提だ。
でも、だからといって「ずっと家に引きこもるだけ」のクリスマスにするつもりはない。
せっかくの恋人同士の特別なイベントなのだ。
少しだけ外の空気を吸いに出て、綺麗な景色を見て、それから温かい部屋に帰ってご馳走を食べる……という流れの方が、絶対に凛も喜んでくれるはずだ。
俺はスマホの検索窓に『クリスマス おすすめスポット イルミネーション 近場』と打ち込み、静かに検索ボタンをタップした。
画面に表示される、ロマンチックな場所の数々。
俺はそれを一つ一つ吟味しながら、胸の中で眠る凛の柔らかな髪をそっと撫でた。
(待ってろよ、凛。絶対に最高のクリスマスにしてやるからな)
美味しいチキンの焼き方、ケーキのデコレーション、そして彼女を笑顔にするためのサプライズプラン。
考えることは山積みだけれど、俺の心は不思議なほど軽く、多幸感に満ち溢れていた。
温かい体温を感じながら、俺は静かに画面をスクロールし続けた。