作品タイトル不明
第322話:背中の重みと、雪崩れるチーズインハンバーグ
背中が、重い。
けれどそれは決して不快な重さではなくて、むしろ俺の心をどこまでも満たしてくれる、愛しくてたまらない重みだった。
「……んー、いい匂い……」
背中から聞こえる、とろんとした甘い声。
俺の腰には細い腕がしっかりと回されていて、背中には凛のおでこがぐりぐりと押し付けられている。
エプロン姿の俺がキッチンに立ってから、凛は「充電する」と言い張って、こうしてずっと俺の背中にひっついたままだった。
正直めちゃくちゃ動きにくいが、二日間の寂しさを埋めるように甘えてくる彼女を剥がすことなんて、俺にできるはずもない。
「ほら、油はねるかもしれないから。あんまり近づけるなよ」
「だいじょーぶ。朝陽くんの背中が盾になってるから」
「俺をなんだと思ってるんだ……」
苦笑いしながら、俺は熱したフライパンに小判型に成形した分厚いハンバーグのタネを落とした。
ジューーーッ!
小気味良い音と共に、肉の焼ける暴力的な匂いが一気にキッチンへ広がる。
表面にこんがりと美味しそうな焦げ目がついたのを確認して、ひっくり返す。
そして少量の水を加え、素早く蓋をして弱火にした。
これで中までふっくらと火を通す、いわゆる蒸し焼きだ。
ハンバーグを焼いている間に、隣の小鍋でソースの準備にとりかかる。
熱した鍋にバターを落とし、ケチャップと中濃ソースを加えて混ぜ合わせる。
そこへ隠し味として少量の砂糖と、味の要である『お醤油』をひと回し。
ふつふつと煮詰まっていくソースから、酸味の飛んだケチャップの甘さと、バターの芳醇な香り、そしてお醤油の香ばしさが混ざり合った、たまらない匂いが立ち上ってきた。
きゅるる……。
「……あっ」
その強烈な匂いの暴力に耐えきれなかったのか。
俺の背中に張り付いている凛のお腹が、可愛らしい音を立てた。
「……ふっ」
「わ、笑わないでよっ……! 匂いが反則なんだもん……」
恥ずかしさを誤魔化すように、背中の凛が俺のシャツをきゅっと掴んで、顔を完全に隠してしまう。
「はいはい。もう焼けるから、手ぇ洗ってテーブルで待ってて」
赤くなったであろう凛の顔を想像してほっこりしながら、俺は火を止めた。
「お待たせ」
ダイニングテーブルに、熱々のお皿を並べる。
ふっくらとパンパンに膨らんだ分厚いハンバーグ。
その上には、艶やかに光る特製のコク旨ソースがたっぷりと掛けられている。
付け合わせはブロッコリーと、甘い人参のグラッセだ。
向かいの席に座った凛は、湯気を立てる白いご飯とお皿を前に、目をキラキラと輝かせていた。
「「いただきます」」
手を合わせ、凛がさっそくフォークとナイフを手にする。
そして、はち切れんばかりに膨らんだハンバーグの中心に、そっとナイフを入れた。
その瞬間。
じゅわっ、と閉じ込められていた透明な肉汁が溢れ出し——。
さらにその奥から、とろとろに溶けた『濃厚なチーズ』が、雪崩のように溢れ出してきたのだ。
「えっ……!?」
溢れ出したチーズは、熱々の鉄板の上で特製ソースと混ざり合い、ぐつぐつと食欲を刺激する音を立てる。
「中から、チーズ……っ!」
「おかえりなさいの特別仕様にしてみた。熱いうちに食べてみて」
俺が得意げに笑うと、凛はコクりと喉を鳴らした。
肉汁とチーズ、そしてソースがたっぷりと絡んだ一口大のお肉をフォークに刺し、ふーふーと冷ましてから、パクリと口に運ぶ。
「んっ……!」
もぐ、と咀嚼した瞬間、凛の目が限界まで見開かれた。
そして次の瞬間には、体の芯から骨抜きにされたように肩の力が抜け、だらしがないほどに幸せそうな笑顔を浮かべた。
「……これですこれですっ」
「美味いか?」
「美味しい……っ! お肉がすっごくジューシーで、チーズがとろとろで……それに、このソース!」
凛は興奮した様子で、もう一口ぱくりと食べる。
「ケチャップベースなのにすごく奥深いっていうか、ほんのりお醤油の香りがして……ご飯に、すっごく合う……!」
たまらず白いご飯をかき込む凛。
学校で見せる『氷の令嬢』の気品なんてどこへやら。
今はただ、美味しいご飯に夢中になる年相応の、可愛い女の子の顔だった。
「だろ? この和風な甘じょっぱいソースが、チーズのコクと相性抜群なんだよ」
「うんっ……! 私、今まで食べたハンバーグの中で、これが一番好き! やっぱり、朝陽くんのご飯が世界一美味しいよ……っ」
幸せそうに両手で頬を包み込む凛を見て、俺の胸の奥がじんわりと熱く、甘く満たされていく。
(俺も、凛がそうやって美味そうに食べてくれるのが、世界一嬉しいよ)
そんな気恥ずかしい本音は心の中にしまって、俺も自分の分のハンバーグにナイフを入れた。
「……はぁ、お腹いっぱい。幸せ……」
食後。
綺麗に空になったお皿を片付け終え、俺たちはリビングのソファに並んで腰掛けていた。
俺が淹れた温かいほうじ茶の湯気が、二人の間をゆっくりと立ち昇っていく。
外はすっかり暗くなり、時計の針は日曜日の夜を指している。
二日間の実家への帰省と、さっきまでの賑やかな食卓の余韻が、静かな部屋に心地よく溶け込んでいた。
「明日から、また学校だね」
「ああ。いつもの日常に戻るな」
凛の言葉に、俺はほうじ茶を啜りながら頷く。
明日になれば、隣に座る甘えん坊なこの子は、学校では凛とした『氷の令嬢』の顔に戻る。
俺たちが付き合っていることはもう学校中に知れ渡っているけれど、廊下ですれ違って少し言葉を交わす時だって、人前では決してこんな風にとろけた笑顔は見せないのだ。
この、誰にも見せない無防備な姿を独り占めできるのは、世界中で俺だけ。
ぽすっ。
ふいに、俺の右肩に軽い重みが乗った。
見れば、凛がコテンと頭を預けてきている。
「……でも、帰ってくる場所は一緒だもんね」
見上げた凛の瞳は、これ以上ないくらい優しく、俺への信頼と愛情で満ちていた。
「ああ。俺たちの居場所は、ここだからな」
学校での距離がどれだけ離れていても関係ない。
家に帰れば、こうして肩を寄せ合い、同じご飯を食べて、笑い合うことができるのだから。
俺はそっと、肩に乗る彼女の頭に自分の頭を預け返す。
静かで、甘くて、少しだけお醤油とデミグラスの匂いが残る、俺たちだけの温かい夜が更けていった。