作品タイトル不明
第316話:海沿いの電車と、クーラーボックスのお爺さん
土曜日の朝。
目覚まし時計の音で目を覚まし、ベッドの中で大きく伸びをする。
隣の部屋には、誰もいない。
その事実が寝起きの頭にじわじわと染み込んできて、少しだけため息がこぼれた。
(……やっぱ、朝は寂しいな)
とはいえ、朝ごはんはちゃんと食べなければ、一日が始まらない。
布団を抜け出してキッチンに立ち、自分一人分の朝食を作る。
炊きたての白いご飯に、お弁当の残りのネギをたっぷり入れた出汁巻き卵。
それから、豆腐とワカメのお味噌汁。
完璧な和朝食の完成だが、向かいの席に「美味しい!」と笑ってくれる凛がいないだけで、どうにも食卓が広く感じてしまう。
『おはよう、朝陽くん!』
味噌汁をすすっていると、スマホがブルッと震えた。
画面には、パジャマ姿の可愛いスタンプと共に、凛からのLINEが届いていた。
『今起きたよー。実家の朝ごはんも美味しいけど、やっぱり朝陽くんのご飯食べたいな』
その健気なメッセージに、俺の口元は自然と緩んでしまう。
昨日の夜もあんなに長電話したのに、朝になればまたすぐに声が聞きたくなるし、こうしてメッセージが来るだけで嬉しくなる。
『おはよう。明日の夜は特製ハンバーグだから、楽しみにしてろよ。そういえば、ご両親が帰ってくるのは今日だったよな?』
喧嘩中だというおじいさんのことにはあえて触れず、俺は今日実家に集まるはずの彼女の両親について尋ねた。
『うん! お昼過ぎにはこっちに着くみたい。久しぶりだから、いっぱいお話ししてくるね!』
『そっか。美味しいもん、いっぱい食べてこいよ』
そんなやり取りを数回交わし、俺は食器を片付けた。
掃除や洗濯といった週末の家事を一通り終わらせた後、俺はクローゼットを開けて、少しだけ綺麗めな私服に着替えた。
時刻は、午前11時。
俺はアパートを出て、最寄り駅から電車に乗り込んだ。
行き先は、凛の実家がある県――彼女へのクリスマスプレゼントである、あのオルゴール工房の直営店だ。
ガタン、ゴトンと揺れる車内。
市街地を抜けると、車窓にはきらきらと太陽の光を反射する、広大な冬の海が広がっていた。
(凛も昨日、この景色を見ながら帰ったんだな)
俺は窓枠に肘をつき、海を眺めながら彼女のことに想いを馳せていた。
電車が途中の少し大きな駅に停車し、ドアが開いた。
乗客が何人か乗り込んでくる中で、ひときわ目を惹く人物がいた。
少し背が高く、ガタイの良い、白髪交じりのお爺さんだ。
その手には、40〜50センチほどはあろうかという、かなり大きなクーラーボックスが下げられている。
(釣りの帰りかな? ……いや、釣り竿とか道具は持ってないな)
お爺さんの服装は動きやすいラフな格好だが、釣り人特有のフル装備というわけではない。
そういえば、この沿線には、俺がよく見ている『お魚捌き系YouTuber』が通っている大きな市場があったはずだ。
(あのお爺さんも、市場で新鮮な魚でも買ってきたのかな。今度、凛と一緒にその市場に行ってみるのも楽しそうだな)
そんなことを考えていると、クーラーボックスを持ったお爺さんが、車内を見回して少し困ったような顔をした。
土曜日のお昼前ということもあり、座席はすべて埋まっている。
重たいクーラーボックスを持ったまま立った状態で電車に揺られるのは、年配の方には少し酷だろう。
俺は迷うことなく立ち上がり、お爺さんに向かって軽く頭を下げた。
「あの、こちらどうぞ」
「おおっ? ……いやいや、兄ちゃん、悪いねぇ」
「いえ、大きな荷物持ったままじゃ大変ですし、座ってください」
「はははっ、そりゃありがたい。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
お爺さんは豪快に笑うと、クーラーボックスを足元に置き、「どっこいしょ」と席に腰を下ろした。
俺はそのすぐ前に立ち、吊り革に掴まりながら、再びスマホを取り出して凛へのLINEの返信を打ち始めた。
「兄ちゃん、どこから来たんだ?」
ふいに下から声をかけられ、スマホから視線を外す。
見ると、座っているお爺さんが、人懐っこい笑顔でこちらを見上げていた。
(誰かに似ているな……)
「えっと、〇〇市です」
「ほう、あっちから来たのか! そりゃ遠かったねぇ。どこまで行くんだい?」
「〇〇駅までです。ちょっと、買い物がありまして」
できるだけ礼儀正しく答えると、お爺さんは「そうかいそうかい」と嬉しそうに頷いた。
「実は俺もな、今日は息子たちが帰ってくるから、たまには美味いもんでも食わせてやろうと思ってな。昨日の夜から、あっちの市場まで泊まりがけで買い出しに行ってたんだよ」
ニコニコと嬉しそうに語るお爺さん。
その言葉を聞いて、俺の脳裏にふと、ある考えがよぎった。
(そういえば、凛の両親も今日、実家に帰ってくるって言ってたな)
週末だし、離れて暮らす家族が集まるにはちょうどいいタイミングなのだろう。
「それは、息子さんたちも喜びますね」
「だといいんだがな! まあ、昔は俺も結構やんちゃしてて、息子たちには苦労もかけたから、せめて美味い魚くらいは振る舞ってやらんとな! がははっ!」
電車の中ということもあり声のトーンこそ控えめだが、どこか豪快で、家族に対する深い愛情が滲み出ているお爺さん。
俺はその気さくな人柄に自然と惹きつけられ、「やんちゃって、どんなことしてたんですか?」と、思わず話の続きを促してしまった。
そこから数十分。
目的地である駅に到着するまで、俺はお爺さんの昔の武勇伝や、市場での値切りのコツなどを聞きながら、周りの迷惑にならないよう何度も肩を揺らして笑いを堪えた。
こんな風に見知らぬ人と意気投合するなんて初めての経験だった。
(……こういう、思いがけない出会いがある一人旅ってのも、なんかいいな)
海沿いを走る電車の中。
温かい気持ちで目的地までの時間を楽しむのだった。