作品タイトル不明
第315話:真夜中の通話と、君に出会う前の俺
静まり返った自室のリビング。
マナーモードを解除したスマホの画面に『冬月 凛』の文字が光った瞬間、俺は少しだけ急いだ手つきで通話ボタンをスワイプし、耳に当てた。
「……もしもし」
『あ……もしもし。朝陽くん?』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、少しだけ緊張したような、柔らかい声。
そういえば、隣の部屋同士でいつでも直接話せたから、こうして用事もないのに電話で会話するのは初めてかもしれない。
『……夜遅くに、ごめんね』
「いや、全然大丈夫。起きてたからさ。……そっちはどうだ?」
俺が尋ねると、電話の向こうで凛が少しだけ言葉を探すように間を置いた。
『うん。あのね……ちょっとだけ、朝陽くんの声が聞きたくなっちゃって』
素直でいじらしいその言葉に、俺の胸の奥にあった寂しさが、じんわりと温かいものに変わっていく。
「そっか。……実は俺も、ちょうど凛の声が聞きたいなって思ってたところだったんだよ」
『……ふふっ、ほんと? よかった』
電話越しに、凛がホッと息を吐く気配がした。
俺はベッドに寝転がり、天井を見上げながらゆっくりと会話を続ける。
「実家、どうだ? おばあ様、元気にしてるか?」
『うん、すごく元気だよ。一緒にお茶飲んで、いっぱいお話ししたの』
「そっか、よかったな」
俺は少しだけ言葉を切り、慎重に次の質問を投げかけた。
「……そういえば、おじいさんとはどうだ? ちゃんと顔、合わせられたか?」
凛が実家を出て、あのアパートで一人暮らしを始めた理由。それは、厳格なおじいさんとの喧嘩が原因だと聞いている。だからこそ、俺にとっても少し気がかりな部分だった。
『ううん……。今日は、いないみたい』
「そっか、今夜はいないんだ」
『うん。明日のお父さんたちのために、遠くまで買い出しに行ってるんだって』
少しだけトーンの落ちた凛の声。俺は「そっか」ともう一度相槌を打ち、あえて深くは追求せずに話題を変えることにした。
「あ、そうだ。今日投稿した動画、さっき見たら再生数結構伸びてたぞ。凛が描いてくれたあのアイコンのおかげだな。すげぇ目を惹くし」
『ううん、私のイラストじゃなくて、朝陽くんのご飯が美味しそうで、手際がいいからだよ。さっきコメント欄見たけど、みんな絶賛してたもん』
「ははっ、ありがとな」
お互いの健闘を称え合っていると、ふいに凛が「……あのね」と小さく呟いた。
『おばあちゃんのご飯も、すっごく美味しいんだけど……やっぱり私、朝陽くんの作るご飯が恋しいな』
しゅんとした声色に、俺は思わず口元を緩ませてしまった。
離れていても俺のご飯を求めてくれるなんて、ご飯作りを担当している身としてはこれ以上嬉しいことはない。
「よし。じゃあ日曜日の夜、凛が実家から帰ってきたら、好きなもん何でも作ってやるよ。何が食べたい?」
『えっとね……ハンバーグがいいな!』
「了解。日曜日の夕飯は特製ハンバーグ定食な。ちゃんと腹空かせて帰ってこいよ」
『うんっ! 絶対、夕方には帰るからね!』
楽しそうに弾む声を聞いているだけで、俺の心はすっかり満たされていた。
けれど、その会話を境に、少しずつ凛の口数が減ってきた。
「……凛?」
『……ん、なぁに?』
「お前、ひょっとして眠いのか?」
『うーん……。朝陽くんの声聞いてたら、なんだか安心してきちゃって……』
まどろみの中にあるような、ゆっくりとした声。
実家に帰ってきても、きっと俺のパーカーをパジャマ代わりに着て、布団に入っているんだろう。
「無理して起きてなくていいぞ。ほら、目ぇつむって寝ろ」
『えぇ……でも、もうちょっとだけ……』
「喋るのは俺が適当にやってるからさ。お前はただ聞いてるだけでいいよ」
俺は寝返りを打ち、スマホを耳元に当てたまま、なるべく静かなトーンで話し始めた。
「日曜のハンバーグだけどさ。付け合わせはどうしようかな。人参のグラッセと、ブロッコリーはいるだろ。あと、目玉焼きも上に乗せるか……」
『……ふふ、美味しそう……』
「スープは……そうだな、やっぱりお味噌汁がいいか。豆腐とワカメのお味噌汁。あ、あとポテトサラダも作っておくか……」
俺が明日の献立をポツポツと呟き続けていると、やがて相槌が途切れ、電話の向こうから規則正しい音が聞こえ始めた。
『……ん……すぅ、すぅ……』
完全に夢の世界へ旅立ったらしい、無防備な寝息。
俺はその寝息を数十秒だけ静かに聞いてから、小さく言葉をこぼした。
「……おやすみ、凛。また明日な」
そっと通話を切る。
スマホを枕元に置くと、再び部屋に静寂が舞い戻ってきた。
けれど、もう先ほどのような寂しさはない。
俺は仰向けのまま、ふと考えた。
(……俺、凛と出会う前って、一人でどんな風に週末を過ごしてたっけな)
趣味の掃除をして、作り置きのおかずを作って、一人でご飯を食べて……。
もちろん、それはそれで平穏な日常だったはずだ。
でも、今は違う。
俺が作ったご飯を「美味しい」と笑って食べてくれるやつがいる。
そして俺も、あいつの笑顔がないと、どうにも調子が狂ってしまう。
「……早く、日曜日にならないかな」
自分でも驚くほど、素直な独り言。
俺は日曜日の夜、ハンバーグを頬張って幸せそうに笑う凛の顔を思い浮かべながら、ゆっくりと目を閉じ、穏やかな眠りへと落ちていった。