作品タイトル不明
第301話:大きめのバッグと靴下
アパートに帰り着いた俺たちは、一旦それぞれの部屋に戻って手洗いうがいを済ませ、部屋着に着替えることにした。
俺は一足先に自分の部屋のキッチンに立ち、買ってきた食材を取り出す。
ブロッコリーを小房に分けて塩茹でし、ウインナーには火が通りやすいように斜めに細かく切れ込みを入れていく。
バゲットを一口大に切り分け、プチトマトのヘタを取って洗っていると、「ただいま」という控えめな声と共に、玄関のドアが開いた。
「おう、いらっしゃい。ちょうど下ごしらえが……」
リビングに入ってきた凛を振り返り、俺は言葉を詰まらせた。
もこもことした淡いピンクのルームウェア姿はいつも通りなのだが、なぜか彼女の右手には、見慣れない少し大きめのトートバッグがしっかりと握られていたのだ。
(……えっ。なんだあのバッグ)
どう見ても、財布やスマホだけが入るサイズではない。
下手すると、一日分の着替えやスキンケアセットなどの『お泊まりセット』が丸ごと入りそうなサイズ感だ。
いや、待て待て。
先週お泊まりしたばかりだし、そもそもここは隣の部屋だぞ。
わざわざそんな大きな荷物を持ってくる理由が……。
まさか。いや、まさか。
急速に心拍数が跳ね上がり、頭の中で警報が鳴り響く。
だが、ここで「そのバッグ何?」とツッコんでしまえば、自分が盛大にパニックに陥るのは目に見えていた。
俺は必死に表情筋をコントロールし、そのトートバッグの存在を完全に『見なかったこと』にして平静を装った。
「そ、ソファに座って待っててくれ。すぐ準備終わるから」
「うんっ。手伝う!!」
「もう終わるから大丈夫だ、ありがとうな」
凛はバッグをそっとソファの隅に置き、そのままちょこんと座り込んだ。
俺は動揺を悟られないように、一心不乱にブロッコリーの茹で加減を確認し続ける。
しばらくすると、背後からトテトテという軽い足音が近づいてきた。
振り返ると、凛が両手にあるものを差し出して立っていた。
今日、ショッピングモールで買ったばかりの、ウサギのワンポイントが入ったもこもこの裏起毛靴下だ。
「どうした?」
俺が首を傾げると、凛は少しだけ上目遣いになり、ぽつりと呟いた。
「……履かせて」
「は?」
「朝陽くんに、履かせてもらいたいの」
モールでの試着ベンチの出来事を引きずっているのか、彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見つめてくる。
いやいや、と俺は苦笑いしながらツッコミを入れた。
「今はコートも着てないし、膝の上に荷物もないだろ。自分で履けるじゃないか」
「……だめ?」
その一言の破壊力たるや。
少しだけ潤んだような瞳で見つめられ、俺の安い抵抗はたったの二秒で崩れ去った。
「……はぁ。わかったよ、貸してみな」
俺はコンロの火を弱め、キッチンの隅で大人しく片膝をついた。
凛は嬉しそうに微笑むと、俺の前にちょこんと座り、右足を差し出してくる。
さっきはタイツ越しだったが、部屋着に着替えた今の凛の足元は完全な素足だ。
俺は彼女の細い足首をそっと手で包み込んだ。
外を歩いてきたわけでもないのに、凛の足先は少しだけひんやりと冷たくなっていた。
「やっぱり、結構冷えるんだな」
「うん……。でも、朝陽くんの手、すっごく温かい」
冷たい素肌に、俺の手の熱がじんわりと伝わっていく。
俺は靴下の口を広げ、その小さなつま先からゆっくりと、もこもこの生地を被せていった。
素足に直接触れる裏起毛の柔らかな感触に、凛が「んっ……」と小さく吐息を漏らす。
かかとの位置を合わせ、足首まで丁寧に引き上げてやる。
左足も同じように履かせ終えて顔を上げると、凛は心底幸せそうな顔で目を細めていた。
「……本当にあったかい。ありがとう、朝陽くん」
「……おう。ほら、足元もあったまったなら、大人しく座ってろ。もうすぐできるから」
俺は真っ赤になった顔を誤魔化すように立ち上がり、逃げるようにコンロへと戻った。
背中越しに「ふふっ」という嬉しそうな笑い声が聞こえてきて、俺の耳はさらに熱を持った。
気を取り直して、いよいよパーティの準備だ。
リビングのテーブルの中央にホットプレートをドンと置き、そのど真ん中に、上部を丸く切り取ったカマンベールチーズをセットする。
チーズを囲むように、色鮮やかな緑のブロッコリー、真っ赤なプチトマト、こんがりと焼き目がつくように切れ込みを入れたウインナー、そして軽くトーストしたバゲットを敷き詰めていく。
ホットプレートのスイッチを入れると、すぐにジュウウ……という食欲をそそる音が鳴り始めた。
熱せられたカマンベールチーズの内側が、まるでマグマのようにとろとろと溶け出していく。
チーズの濃厚な香りと、ウインナーから滲み出る肉汁、そして微かに効かせたニンニクの風味が混ざり合い、部屋いっぱいに暴力的なまでのいい匂いが充満した。
「うわぁ……すっごく美味しそう!」
「よし、できたな。それじゃあ……一ヶ月、ありがとうな」
「うんっ! これからもよろしくね、朝陽くん」
グラスに注いだオレンジジュースで、カチンと乾杯の音を鳴らす。
凛はさっそく専用の長いフォークを手に取り、こんがり焼けたウインナーを突き刺した。
そして、中央でグツグツと煮えたぎるチーズの海へと、それを思い切りダイブさせる。
たっぷりとチーズを絡ませて持ち上げると、とろーりとどこまでもチーズが糸を引いた。
「熱いから気をつけてな」
「はーい。……はふっ、んっ……」
凛はフーフーと息を吹きかけてから、小さな口でぱくりとウインナーを頬張った。
パリッ、と皮が弾ける音と共に、熱々の肉汁が口の中に溢れ出す。
そこに、濃厚でまろやかなカマンベールチーズのコクが絡みつき、絶妙な塩気がたまらない。
「んんーっ……!」
凛は両手で頬を押さえながら、これ以上ないほど輝く笑顔を見せた。
「ふふっ、すっごく美味しいっ! ウインナーのジューシーなところを、チーズがすーって包んでくれるの!」
「だろ。ブロッコリーとかトマトも、チーズにめちゃくちゃ合うから試してみな」
「うんっ!」
俺もバゲットにたっぷりとチーズを絡め、口へと運ぶ。
サクッとしたパンの食感に、トロトロのチーズが染み込んでいく感覚は、まさに悪魔的な美味しさだ。
お互いに好きな具材をディップし合いながら、「これ美味しいよ」「トマト気をつけて、中めっちゃ熱いから」と笑い合う。
少し遅れてやってきた、甘くて美味しい一ヶ月記念日のパーティ。
謎の大きめなトートバッグの存在だけが心の片隅でチクチクと引っ掛かっていたが、目の前で美味しそうにチーズを頬張る凛の顔を見ていると、今はそんなこともどうでもよくなってしまうくらい、幸せな時間が流れていた。