作品タイトル不明
第281話:お揃いの香りと、肩を寄せ合う映画鑑賞
「……ふぅ」
脱衣所でのアクシデントによる動悸をなんとか抑え込み、俺は温かい湯船に肩まで浸かって深く息を吐いた。
浴室には、先ほどまで凛が入っていた熱気と、今日二人で買ったばかりの『カモミール&ミルク』の甘く優しい香りが充満している。
目を閉じると、さっきドアの隙間から見えた、お湯でほんのりと桜色に染まった彼女の細い腕が脳裏にフラッシュバックしてしまう。
「……いかん。こんな状況で長湯したら、血圧が上がってぶっ倒れる」
ただでさえ心拍数が跳ね上がっている状態なのだ。
これ以上のぼせるのは危険だと判断し、俺はいつもより急ぎ気味でサッと出ることにした。
とはいえ、たっぷりと張られた温かいお湯と、ミルクの甘い香りに包まれていると、不思議と心まで解れていくのを感じる。
(……たまにはこういう入浴剤を使って、特別な気分を味わうのも悪くないな)
なんて、無意識のうちに口角が上がってしまっている自分に苦笑いしながら、俺はお風呂から上がった。
パジャマに着替えてリビングに戻ると、そこにはすでに完璧な陣形が敷かれていた。
ローテーブルの上には、スーパーで買い込んだポテトチップス、チョコレート、ぶどうグミ、そして冷たいジュースの入ったグラスが二つ。
その前に置かれたソファには、もこもこのルームウェアを着た凛がちょこんと座り、目を輝かせて俺を待っていた。
「あ、朝陽くん!」
俺がソファの隣に腰を下ろすと、凛は嬉しそうに鼻をすんすんと鳴らして身を乗り出してきた。
「えへへ、朝陽くんから、私と同じ匂いがする……お揃いだね」
「ばっ、お前……あんまりくっつくな」
「まあまあ、硬いこと言わずに」
俺の袖口を引いて匂いを嗅いでくる彼女に、俺は慌てて顔を背けた。
ただでさえ同じお風呂に入ったという事実だけで意識してしまうのに、自分と全く同じ甘い香りが隣から漂ってくる破壊力は計り知れない。
「さ、映画見るぞ。部屋、少し暗くするからな」
「うんっ! 準備万端だよ!」
俺は照れ隠しで立ち上がり、部屋のメイン照明を落として、間接照明だけの少し薄暗い空間を作った。
テレビの画面に、今日レンタルしてきた王道のアニメコメディ映画が映し出される。
「はい、朝陽くん。まずはポテトチップスのサワークリームオニオン味からだよ。あーん」
「えっ、ちょ……」
俺が止める間もなく、凛の小さな指がつまんだポテトチップスが俺の口元に運ばれてくる。
パクッ、と咥えると、濃厚なサワークリームの酸味と玉ねぎの旨味が口いっぱいに広がった。
「美味しいでしょ? 夜中に食べるポテチって、どうしてこんなに美味しいんだろうね」
「そりゃあ、背徳感という名のスパイスがかかってるからな。……ってか、自分で食べられるから」
「えー? お泊まりパーティーなんだから、こういうのもアリでしょ? はい、次はしょっぱいのの後の、甘いチョコレート!」
俺の抗議など全く聞く耳を持たず、凛は楽しそうにチョコレートを俺の口に放り込んでくる。
ポテチの塩気と、チョコの甘み。
こんな時間にこんなカロリーの暴力、普段の俺なら絶対に許さないが……今日ばかりは、隣で楽しそうに笑う彼女の顔に免じて許してしまう。
映画はテンポよく進み、ドタバタとしたギャグシーンに二人で声を上げて笑った。
「あははっ! 今のキャラクター、なんか大輝くんに似てない!?」
「確かに、ちょっとお調子者なところがそっくりだな。明日LINEでからかってやるか」
「ふふっ。あ、でも、ここぞって時に助けてくれるところはかっこいいかも。……朝陽くんみたい」
凛はそう言って、コテン、と自然な動作で俺の肩に自分の頭を預けてきた。
「……っ」
薄暗い部屋の中。
俺の肩に、彼女の頭の確かな重みと、温もりを感じる。
少し湿り気を帯びた髪から、カモミールとミルクの甘い香りがふわりと立ち上り、俺の鼻腔をくすぐった。
「……凛、重いぞ」
「嘘だ。私、軽いでしょ?」
「……まあ、な」
俺が小さく息をついて肩の力を抜くと、凛は「えへへ」と満足そうに笑って、さらに擦り寄るように俺の腕にギュッと抱きついてきた。
もう、映画の内容なんて全く頭に入ってこない。
右半身から伝わる彼女の体温と、鼓動の音。それだけが、今の俺の世界のすべてだった。
やがて、映画のエンドロールが流れ始め、主題歌が静かなリビングに響く。
ふと横を見ると、俺の肩に寄りかかったまま、凛が「ふぁ……」と可愛らしいあくびをこぼしていた。
「ほら、もう映画終わるぞ。寝る準備するか」
「んぅ……面白かったねぇ……」
眠気でとろんとした目をこすりながら立ち上がる凛を促し、俺は寝床の準備に取り掛かった。
俺のベッドのすぐ横の床に、押し入れから出してきた来客用の敷布団を敷き、毛布を整える。
「……朝陽くん、ごめんね。私、ベッド貸してもらって……」
「気にするな。当然だろ。それに――」
俺はわざとらしく咳払いをして、ベッドの上に座る凛に少しだけ釘を刺した。
「前にも言ったけど、一緒のベッドで寝るのは絶対にナシだからな。俺はこっちの布団で寝るから」
「……むぅ」
凛は少しだけ口を尖らせたが、眠気が勝っているのか、素直に俺のベッドの布団に潜り込んだ。
俺も部屋の明かりをすべて消し、床に敷いた自分の布団に寝転がる。
窓から差し込む淡い月明かりが、部屋の中を薄っすらと照らしていた。
すぐ隣、手を伸ばせば届く距離にあるベッドの上から、モゾモゾと布団が擦れる音が聞こえる。
「……朝陽くん」
「ん?」
「おやすみなさい。……また、明日ね」
ベッドの上から、少しだけ俺の方へ手を伸ばすようにして、凛が優しい声で呟いた。
「ああ。おやすみ、凛」
俺は暗闇の中で、その小さな手のひらをポンと軽く叩き返し、静かに目を閉じた。
(……なんとか、お泊まり初日を無事に乗り切ったな)
自分の理性が守られたことに、心底ホッと胸を撫で下ろす。
――しかし。
この時の俺は、彼女のお泊まりへの本気度を、まだ全く理解していなかったのだ。