作品タイトル不明
第282話:コアラな令嬢と、幸せ宣言
窓から差し込む淡い月明かりが、部屋の中を薄っすらと照らしていた。
すぐ隣のベッドからは、すでに静かな寝息が聞こえてくるような気さえする。
明日も休みだし、少し遅めに起きてフレンチトーストでも作ろうか。
そんな平和な明日の予定をぼんやりと考えながら、静かに目を閉じ、眠りの底へと沈みかけようとした――まさにその時だった。
スッ……。
不意に、俺の掛け布団の端が持ち上がる気配がした。
ほんの少しだけ入り込んだ部屋の冷たい空気と一緒に、フワリと『カモミール&ミルク』の甘い香りが滑り込んでくる。
(……ん?)
横向きに寝転がっていた俺の胸の前に、何かがもぞもぞと潜り込んできた。
そして次の瞬間、俺の胴体に細い腕がピタリと回り込み、まるでコアラのように『ギュッ』と抱きつかれた。
「…………」
俺はゆっくりと目を開けた。
暗闇の中でもはっきりとわかる距離。
俺の腕の中には、もこもこのルームウェアを着た隣のクラスの『氷の令嬢』が、完全に俺を抱き枕にして丸まっていた。
「……凛さん。何をしているのかね?」
俺は呆れ半分、動揺半分で、思わず敬語っぽく尋ねてしまった。
すると、腕の中の凛は悪びれる様子も全くなく、暗闇の中でキラキラと瞳を輝かせて俺を見上げた。
「添い寝をしているのですよ」
「……一緒の布団で寝るのはダメって言いませんでしたっけ」
「だって、朝陽くんの匂いがするから、こっちの方が落ち着くんだもん」
そんな子供みたいな言い訳をしながら、凛は俺の胸にすりすりと顔を押し付けてくる。
柔らかい髪が顎をくすぐり、彼女の体温がパジャマ越しにダイレクトに伝わってくる。
「ダメだ、自分のベッドに戻りなさい。風邪引くぞ」
ギリギリ残っていた理性を振り絞って、俺は彼女の肩を軽く押し返そうとした。
しかし、凛はそれに抵抗するように、さらにギュッと力を込めて俺にしがみついた。
「……朝陽くんは、私に触れるのは嫌なのかな……?」
上目遣い。
少しだけ潤んだ瞳と、しょんぼりと垂れ下がったような声。
それは、俺が世界で一番弱い表情だった。
「……っ、そういうわけじゃないけど……」
俺が口ごもると、凛はパァッと顔を輝かせ、花が咲いたように微笑んだ。
「じゃあ、いいじゃん」
「いや、よくない。俺だって健全な男なわけで――」
「私はね」
俺の言い訳を遮るように、凛が静かに、でもはっきりとした声で言った。
「私はね、朝陽くんのご飯を食べてる時と、こうして『ぎゅー』してる時が一番幸せだよ」
「……凛」
「イルミネーション見に行ったとき、朝陽くん言ってくれたよね?私を幸せにしてくれるんだよね?」
(――――ああ、ダメだ)
こんなことを言われて、彼女を暗いベッドに一人で追い返せる男がこの世にいるだろうか。いや、いない。
(……俺、この子には一生勝てないな)
完全敗北を悟った俺は、小さくため息をつき、抵抗することを諦めた。
そして、彼女の背中にそっと腕を回し、優しく引き寄せるような体勢を作った。
「……仕方ないな」
「えへへ、やったぁ」
密着したことで、布団の中の温度が一気に上がる。
お互いの心臓の音が聞こえてしまいそうな距離で、俺たちは暗闇の中、ポツポツと小声で雑談を始めた。
「ねえ、朝陽くんの心臓、すっごくドキドキしてるよ。えへへ」
「……誰のせいだと思ってるんだよ。お前が無防備すぎるからだろ」
「私は朝陽くんだからくっついてるんだよ?」
「そうかい…」
「 ……明日はお休みだね」
「ああ。何時くらいに起きる?」
俺の問いかけに、凛は胸に顔を埋めたまま、少しだけ考えるように沈黙した。
「んー……お昼まで、こうしてたいな」
「そりゃ寝すぎだ。朝ごはん、食べなくていいのか?」
「食べる。明日の朝ごはんはね……甘くて、ふわふわの、フレンチトーストがいい……」
雑談を続けているうちに、だんだんと凛の返事のテンポが遅くなり、口数が減っていく。
やがて、俺の胸元から「スースー」という、規則正しくて安心しきった寝息が聞こえ始めた。
(……寝たか)
腕の中に、最愛の少女を抱きしめているという現実。
甘い香りに包まれ、彼女の柔らかな体温と、心地よい重みを感じる。
(なんか、理性の心配をしていたのがバカみたいだな…)
手を出そうとも思えないくらい愛おしい。
そう思えるくらい、腕の中にある温もりはこれ以上ないほどに心地よく、俺の心を優しく満たしていた。
「……おやすみ、凛」
俺は今度こそ本当にそう呟くと、彼女の甘い香りのする髪にそっと自分の頬を寄せた。
そして、コアラのようにしがみつく彼女を落とさないよう大切に抱きしめたまま、深く、幸せな眠りへと落ちていった。