作品タイトル不明
第280話:煮込みハンバーグと、カモミール香るお風呂
マンションに帰り着き、俺の部屋のドアを開ける。
「ただいま!!」という凛の声に、俺は「おかえり」と返す。
「よし。じゃあ、お泊まり一食目の晩ご飯、作るか」
「わぁっ、やったぁ! 手伝うことある?」
「いや、今日は座ってていいぞ。凛の好きな『煮込みハンバーグ』だからな」
エプロンを締め、調理を開始する。
合挽き肉に、じっくり炒めた飴色玉ねぎ、卵、パン粉、そしてナツメグを少し効かせて、ボウルで粘り 気が出るまでしっかりとこねる。
空気を抜くように両手でキャッチボールをして形を整え、薄く油を引いたフライパンへ。
『ジュワァァァッ!!』
肉が焼ける、食欲を刺激する音がキッチンに響く。
表面にこんがりと焼き目がついたら、赤ワイン、ケチャップ、ウスターソース、そして少しのバターを合わせた自家製のデミグラスソースを流し込み、たっぷりのしめじと一緒にフタをしてコトコト煮込んでいく。
「(……くんくん)あぁぁ……すっごくいい匂い……。」
「お前は本当に美味そうに匂いを嗅ぐな。よし、完成だ」
深めのお皿にハンバーグを盛り付け、上からしめじ入りの濃厚なデミグラスソースをたっぷりとかける。
付け合わせはブロッコリーと、甘い人参のグラッセだ。
「「いただきます!」」
向かい合って手を合わせ、いざ実食。
凛がフォークとナイフを使ってハンバーグに切り込みを入れた瞬間。
「……っ! わぁ……!」
閉じ込められていた透明な肉汁が『ジュワッ』と溢れ出し、赤茶色のデミグラスソースとマーブル状に混ざり合った。
ソースをたっぷり絡ませて、凛が大きな一口をパクリと頬張る。
「んんんんんっ……!!」
もきゅもきゅと咀嚼した瞬間、彼女の顔が文字通り「ふにゃっ」ととろけた。
「やわらかっ……! お肉の旨味がぎゅって詰まってて、ソースがすっごく濃厚で……美味しいっ! ほっぺた落ちちゃうよぉ……っ」
「ソースをご飯にワンバウンドさせてみろ。飛ぶぞ」
「う、うん……! ――んふぅ〜〜っ、ほんとだ、最高……っ」
ニコニコと、本当に幸せそうにご飯をかきこむ彼女の姿を見ていると、俺の胸の中まで満たされていくようだった。
学校での『氷の令嬢』の姿からは想像もつかない、この無防備でだらしない笑顔。
俺の作ったご飯で、俺の前でだけ見せてくれるこの顔を見ている時間が、何よりも好きだった。
「ごちそうさまでした! あー、美味しかったぁ……」
二人で綺麗に平らげ、俺はキッチンで食器を洗い終えた。
いつもなら、このタイミングで凛は立ち上がり、「それじゃあ、お風呂入るから一旦自分の部屋に戻るね。また後で連絡する」と言って、隣の自室へと帰っていく。
しかし今日は、食後の温かいお茶を飲みながら、俺の部屋のソファに深く腰を下ろしてくつろいだままだ。
当たり前だ。『お泊まり』なのだから。
(……わかってはいたけど、いざこの時間になると、妙に緊張してくるな)
「凛、先にお風呂入ってきなよ。今日買った入浴剤、さっそく使おうぜ」
「あっ、そうだね! わかった、お風呂借りるね!」
凛は自分のカバンからお泊まり用のスキンケアポーチを取り出し、トコトコと俺の部屋の脱衣所へ向かっていった。
カチャリ、と鍵の閉まる音がして、しばらくすると『ジャーーーッ』とシャワーの音が微かに聞こえてくる。
リビングに一人残された俺は、ソファに座ったまま、その音をやけに鮮明に拾ってしまう自分の耳を恨んだ。
(落ち着け、俺。)
テレビをつけて適当なバラエティ番組を流してみるが、内容なんてこれっぽっちも頭に入ってこない。
冷たいお茶を飲んでなんとか冷静さを保とうとしていると、不意にシャワーの音が止んだ。
そして――。
ガチャリ。
「……朝陽くん」
脱衣所のドアがほんの数センチだけ開き、そこから顔だけをひょっこりと出した凛が、情けない声で俺を呼んだ。
「ん? どうした? タオルならそこの棚に――」
「ち、違うの……。あのね……着替えと下着、自分の部屋から持ってくるの、忘れちゃった……」
「…………は?」
俺は持っていたお茶のコップを取り落としそうになった。
いつもなら一旦自分の部屋に帰ってお風呂に入るため、俺の部屋の脱衣所に着替えを持っていくという習慣がすっぽり抜け落ちていたのだろう。
頭も体も洗い終わり、いざ体を拭いたところでその事実に気づいたらしい。
「そ、それでね……」
ドアの隙間から覗く凛の顔は、茹でダコのように真っ赤に染まっている。
そして、彼女は消え入りそうな声で、とんでもないお願いをしてきた。
「私の部屋のベッドの上に、お泊まり用の着替えと……その、下着を置いてあるから……取ってきて、くれないかな……?」
「っ!?」
俺の理性のゲージが、音を立てて削り取られる音がした。
だが、このまま彼女を全裸で脱衣所に放置するわけにもいかない。
「わ、わかった! 今すぐ取ってくるから、そこで待ってろ!」
俺は慌てて立ち上がり、合鍵を使って隣の彼女の部屋へと飛び込んだ。
ベッドの上には、もこもこした素材の可愛いルームウェアと……その上に、小さく折りたたまれた布切れ(下着)がちょこんと乗っていた。
(……見ない。俺は何も見ないぞ。)
俺は薄目で視界をぼやかしながら、ロボットのようにぎこちない動きでそれらを鷲掴みにし、全速力で自分の部屋へと戻った。
「ほらっ! 持ってきたぞ!」
少しだけ開いたドアの隙間から、それらを差し出す。
「ご、ごめんなさい……ありがとう、朝陽くん……っ」
隙間から伸びてきた、お湯でほんのりと桜色に染まった細い腕が着替えを受け取る。
ほんの一瞬だけ見えた濡れた肩先の艶やかさに、俺は慌てて顔を背けた。
数分後。
「ふぅー、お風呂、すっごく気持ちよかったー! ……ご、ごめんね、さっきは」
リビングに戻ってきた凛は、もこもこのルームウェアを着て、まだ少し恥ずかしそうにはにかんでいた。
少し湿り気を帯びた長い髪が白い首筋に張り付いていて、彼女が動くたびに、今日二人で買った『カモミール&ミルク』の、甘くて優しい香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「……いや、次から気をつけてくれよな。心臓に悪いから」
「う、うん。次、朝陽くんの番だよ! いってらっしゃい!」
笑顔で送り出され、俺は脱衣所へと向かった。
中には、まだほんのりと彼女の熱気と、甘いカモミールの香りが充満している。
(……ってことは、俺、今からこれと同じ匂いのお湯に浸かるのか)
間接的にお湯を共有し、お風呂上がりには彼女と全く同じ香りを纏うことになる。
さらに、さっきのアクシデントのせいで、心臓は未だに早鐘を打っていた。
金曜日の夜は、まだ始まったばかりである。