作品タイトル不明
第279話:お泊まりテンションと、ハンバーグ
目が覚めた瞬間、俺はベッドの上で小さく息を吐いた。
ついに、この日が来てしまった。
今日から日曜日までの二泊三日、凛が俺の部屋に泊まり込む。
楽しみな気持ちは、もちろんある。
大いにある。
……が、それ以上に、健全な男子高校生である俺の『理性』がこの二晩もつのかどうかという、非常に重大な懸念事項があった。
なんせ相手は、普段から俺にだけ無防備な姿を晒してくる、とんでもなく可愛い(そして少し抜けている)女の子なのだ。
同じ部屋で寝食を共にし、あまつさえ『一緒のベッドでは絶対寝ないからな』と事前に釘は刺してあるものの、果たして本当にその決意が守り切れるのかという爆弾まで抱えている。
「……よし、落ち着け俺。紳士であれ」
鏡の前で自分の頬をパチンと叩き、洗面所で顔を洗う。
身支度を整え、エプロンをつけて朝食の準備を始めていると――。
ガチャリ。
合鍵を使って入ってきたのは、もちろん隣に住む凛だ。
「おはよう、朝陽くん」
「おはよ。早いな、今作り始めたところだぞ」
パタパタとスリッパを鳴らしてキッチンにやってきた凛は、そのまま俺の背中にぴとっと額を押し付けるようにくっついてきた。
「……んー、朝陽くんの匂い」
「こらこら。これから火を使うから危ないぞ」
「……いいの、ちょっとだけ。今日からお泊まりだから、フライング」
背中に温かくて柔らかな感触(と、シャンプーの甘い匂い)を感じながら、俺は動揺を悟られないように必死に深呼吸をして朝食を作り始める。
鍋で出汁を取り、豆腐とわかめのお味噌汁を作る。
隣のコンロでは、たっぷりの出汁を含ませた卵液を四角いフライパンに流し込み、『ジュワッ』と小気味いい音を立てながら黄色いだし巻き卵をくるくると巻いていく。
「(……くんくん)いい匂い……」
背中に回された小さな手が俺のエプロンをきゅっと掴み、俺の背中で嬉しそうに生唾を飲み込む音が聞こえる。
もう、朝からこれだ。俺の理性は、すでにギリギリだった。
「ほら、できたぞ。テーブル運んでくれ」
「うんっ!」
出来立ての温かいお味噌汁と、出汁をたっぷり含ませただし巻き卵。
いつも通りのメニューで、いつも通りの朝。
だが、向かい合って食べていると、心なしかいつもより視線が合う回数が多い気がする。
「……ん?」
「ううん、なんでもない。……えへへ」
目が合うたびに、凛は照れくさそうにはにかむ。
お互い口には出さないが、今日から始まる『特別』を意識して、どこかソワソワしているのは同じらしい。
そんなフワフワした空気のまま登校し、無事に学校での授業を終えた。
正直、今日の俺はほとんど黒板の文字が頭に入ってこなかった。
頭の中は「夜の買い出し」と「どうやって理性を保つか」のシミュレーションで手一杯だったからだ。
放課後。
昇降口で合流した俺たちは、そのまま駅前の商業施設へと足を向けた。
まずは、ドラッグストアに立ち寄る。
お泊まり用の洗面用具やスキンケア用品置き場は、すでに大輝のアドバイス通り俺の洗面台にスペースを作ってあるので問題ない。
「ねえ、朝陽くん。せっかくのお泊まりだし……入浴剤とか入れてみない?」
凛が不意にそう提案し、パァッと顔を輝かせた。
「入浴剤? まあ、いいけど……」
「やったっ! せっかくだから、すっごくいい匂いのやつにしたいな」
二人で入浴剤のコーナーに移動し、ズラリと並んだ商品を見上げる。
「森の香り」「はちみつゆず」「ローズ」など、色々な香りが並んでいる。
「私、この『カモミール&ミルク』ってやつが気になるかも」
「カモミールか、リラックスできそうだな。じゃあそれに……」
言いかけて、俺の思考がピタリと停止した。
(……いや、待てよ? 今回はお泊まりだから、凛も俺の部屋の風呂に入るわけだ。つまり、同じ入浴剤の入った風呂に浸かる。ってことは……風呂上がりの俺と凛から、全く同じ甘い匂いがするってことか……!?)
いかん、想像しただけで変な動悸がしてきた。
一緒に風呂に入るわけではないのに、それだけでどうしてこんなに破壊力があるんだ。
「朝陽くん? どうしたの?」
「い、いや! なんでもない! それにしよう!」
「ふふっ。ねえ、小袋じゃなくて、この大きいボトルの方買っちゃおっか」
「ボトル?」
「うん。これなら、お泊まりが終わった後も、朝陽くんの家のお風呂でずっと使えるでしょ?」
上目遣いでそんなことを言われ、俺が断れるはずもなかった。
入浴剤のボトルをカゴに入れ、次はスーパーの食品売り場へ。
晩ご飯の材料をカゴに入れた後、俺たちが向かったのは『お菓子コーナー』だ。
「夜、映画とか見ながら食べる用だろ? ポテトチップスは外せないな」
「あっ、この期間限定のぶどうグミも食べたい! あとチョコも!」
「しょっぱいものと甘いもののループは基本だからな」
「朝陽くん朝陽くん! このちょっと高いバニラアイスもカゴに入れていい!?」
「今日はお祭りだからな」と自分に言い訳をして、俺は凛が持ってきたアイスや、いつもなら絶対買わないような甘いジュースを次々とカゴに放り込んでいった。
完全に『お泊まりテンション』というやつに当てられている。
普段の俺なら「栄養が〜」とか言いそうなものだが、今日ばかりは財布の紐も理性の紐も緩みっぱなしだ。
スーパーを出た後、エコバッグを片手に提げたまま、俺たちはレンタルビデオ店へ向かった。
「お菓子をいっぱい買ったんだし、肝心の映画も借りていかないとな」
「うん! どんなのがいいかな……ホラーは絶対ダメだよ! 私、夜トイレ行けなくなっちゃうから!」
「わかってるよ。アニメか、アクション映画あたりにしよう」
棚に並んだDVDのパッケージを二人で眺めながら、「これ面白そう」「いや、こっちの方が……」と言い合う。
ただそれだけのことなのに、たまらなく楽しくて、愛おしい時間だった。