作品タイトル不明
第193話:温かい見送りと、ふっと抜けた糸
食後の温かいお茶を飲みながら、リビングには穏やかな笑い声が響いていた。
緊張で泣いてしまった凛も、結子おばさんの優しいフォローですっかり落ち着き、いつもの柔らかい笑顔を取り戻している。
「……ねえ、凛さん。私たち、朝陽から毎日ご飯の写真は送ってもらってるんだけど、学校での様子まではなかなか聞けなくて。凛さんから見て、最近の朝陽はどう?」
結子おばさんが湯呑みを置き、興味津々といった様子で身を乗り出した。
凛は少しだけ背筋を伸ばし、嬉しそうに目を輝かせて話し始めた。
「朝陽くん、学校でもすごく頼りにされてるんです。この間の体育祭でも、クラスの代表としてリレーを走って、大活躍したんですよ」
「あら! 本当? 朝陽、そんなこと一言も言ってなかったじゃない」
「いや……別に大したことじゃないし、わざわざ言うのもなんだかって思って……」
俺がバツが悪そうに視線を逸らすと、凛は「大したことあります!」と少しむくれたように反論した。
「それに家でも……私が、海外にいる両親に会えなくて寂しくて、落ち込んでいた時。朝陽くんはわざわざ、私の好きな家庭の味の『おでん』を作って、元気づけてくれたんです」
「……凛さん」
「朝陽くんは、自分のことよりも周りの人のために一生懸命になれるんです。だから、朝陽くんの友達も、私の友達も、みんな毎日すごく助けられています。……私も、その中の一人です」
凛の言葉には一つも嘘がなく、ただ真っ直ぐに、俺の普段の姿を親代わりの二人に伝えようとしてくれていた。
その話を聞き終えた修おじさんは、深く息を吐き、どこかホッとしたような、心底嬉しそうな顔をした。
「……そうか。朝陽がそんな風に、誰かのために頑張って、周りから頼られるようになっているなんてな。本当に嬉しいよ」
「ええ、本当に。凛さんがいつも側にいて、この子の良いところをちゃんと見ていてくれるから、朝陽も毎日頑張れるのね」
おばさんの温かい眼差しに、俺は照れくさくて首の後ろを掻いた。
俺の大切な人たちが、俺の知らないところで俺を肯定し、笑い合っている。
ただそれだけのことが、今の俺にはたまらなく幸福で、胸の奥がじんわりと熱くなる光景だった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、夕方前。
仕事の出張帰りということもあり、おじさんとおばさんはそろそろ帰路につくことになった。
玄関で、おばさんは凛の手をもう一度優しく握った。
「今日は本当にありがとう、凛さん。朝陽の作ったご飯、あなたと一緒に食べられて本当に楽しかったわ。また近いうちに遊びに来るわね」
「はい、お待ちしています。……あの、結子さん」
「ん? どうしたの?」
凛は少しだけ恥ずかしそうにモジモジしながら、自分のスマホを取り出した。
「もし、もしよろしければ……私と、LINEの交換をしていただけませんか? これから、朝陽くんのこととか、色々お話しできたら……嬉しいなって」
「まあ! もちろんよ、私も凛さんと連絡先交換したかったの!」
おばさんはパァッと顔を輝かせ、嬉々としてスマホを取り出した。
二人がQRコードを読み取り合い、無事に交換が完了する。
その後、俺と凛は二人並んで、アパートの階段の下まで見送りに出た。
車のドアを開ける直前、結子おばさんはスマホをひらひらと振って、俺たちにウインクをした。
「凛さん、今度、二人で写ってる写真とか、二人で一緒にご飯食べてる写真も送ってね! 楽しみにしてるから」
「はいっ! たくさん送りますね」
「おいおい、そんなの送らなくていいからな……」
俺が呆れたように言うが、おばさんは「ふふふ」と笑い、おじさんも「じゃあな、また来るよ」と手を挙げて車に乗り込んだ。
走り去る車が見えなくなるまで見送り、俺たちは連れ立って201号室へと戻った。
「ただいまー……って、おい!」
201号室のリビングに入った途端、俺は思わず声を上げた。
つい数分前まで完璧な淑女を演じていたはずの凛が、ふらふらと奥の部屋へ歩いていき、俺のベッドにそのまま「ふにゃ〜……」と倒れ込んだのだ。
「お前、俺のベッドで何やってんだよ」
俺が苦笑いしながら近づくと、凛は枕に顔を埋めたまま、もごもごと情けない声を出した。
「……あさひくぅん……もう、一歩も動けないよぉ……」
おばあ様直伝の「令嬢モード」は完全に解除され、そこには緊張の糸が切れて骨抜きになった凛がいた。
「ははっ、お疲れ様。本当によく頑張ったな」
「うん……緊張しすぎて、心臓が口から出るかと思った……。でも、おばさんもおじさんもすっごく優しかった……」
安心しきったように、俺のシーツにすりすりと頬を擦り付ける凛。
見ている分には可愛いが、外行きの服のまま寝かせるわけにはいかない。
「もう少し、このまま寝かせてぇ……」
「ダメだ。シワになるから、とりあえず着替えてからにしろ」
「はーい……。じゃあ、着替えてからまた来るね……」
凛はのそりのそりと起き上がり、自分の部屋へと戻っていった。
夕食は、昼間に多めに作っておいた煮物や出し巻き卵の残りで軽く済ませた。
その後、それぞれ部屋でお風呂に入り、俺がリビングでくつろいでいると、ガチャリとドアが開いた。
「朝陽くーん……」
そこには、濡れたままの黒髪をタオルで拭きながら、ドライヤーを片手に持った凛が立っていた。
部屋着姿の彼女は、とてとてと俺の隣のソファに座り、コテンと肩に頭を預けてきた。
「自分で乾かすの、めんどくさくなっちゃった……。乾かして?」
「お前なぁ……」
「だって、今日はいっぱい頑張ったもん」
上目遣いで見つめてくる彼女に勝てるはずもなく、俺はドライヤーを受け取った。
温風を当てながら、彼女のさらさらとした髪を指先で梳いていく。シャンプーの良い香りと、彼女の体温がすぐそばで感じられる。
「……気持ちいい」
「熱くないか?」
「うん。朝陽くんの手、すごく優しい」
髪を乾かし終えた後も、俺たちはそのままソファに並んで座り、今日一日の出来事を語り合った。
おばさんの話、料理を褒められたこと、そして凛が作ってくれた完璧な空気感のこと。
しかし、よほど精神的なエネルギーを使い果たしたのだろう。話している途中で、凛の頭がカクン、と俺の肩にもたれかかった。
「……凛?」
覗き込むと、彼女はすーすーと穏やかな寝息を立てて、完全に眠りに落ちていた。
「仕方ないな……」
俺はそっと彼女の体を抱き上げ、俺の部屋のベッドへと運んだ。
シーツの上に静かに下ろし、風邪を引かないようにしっかりと布団をかけてやる。
「おやすみ、凛」
寝顔を見届けてから、俺はクローゼットから布団を引っ張り出し、リビングのソファへと向かった。
ソファに寝転がり、天井を見上げる。
今日、おじさんとおばさんの前で「世界で一番かっこいい」と言ってくれた凛。
そして今、俺のベッドで無防備に眠っている凛。
彼女の想いに、俺も絶対に答えなければならない。
凜の誕生日まで、あともう少し。
俺は自分の中にある譲れない決意をしっかりと噛み締めながら、静かに目を閉じた。