作品タイトル不明
第192話:大切な恩人と、震える令嬢
――ピンポーン。
アパートの静寂を破り、玄関のインターホンが鳴った。
俺は大きく深呼吸を一つして、「はーい」と声をかけながら玄関へ向かった。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開ける。
「朝陽! 元気にしてた?」
「おばさん。おじさんも、遠いところわざわざありがとう。いらっしゃい」
ドアの向こうには、電話口と変わらない明るい笑顔のおばさんと、その後ろで優しく目を細めるおじさんの姿があった。
二人とも仕事の出張帰りということで少しフォーマルな格好をしているが、纏っている空気は昔から変わらず温かい。
「本当に久しぶりだな、朝陽。背、また少し伸びたんじゃないか?」
「そうかな。……とりあえず、中に入ってよ」
俺が促して二人が靴を脱ごうとした、その時だった。
俺の背後から、スッと凛が前に進み出た。
そして、玄関の前に立ち、背筋をピンと伸ばして、おばあ様直伝の流れるような美しいお辞儀をした。
「はじめまして。お隣に住んでおります、冬月凛と申します。よろしくお願いいたします」
それは、高校生とは思えないほど洗練された、丁寧な挨拶だった。
おばさんは目を丸くし、おじさんも驚いたように「おお……」と感嘆の声を漏らす。
(すげぇ……本当に完璧だ……)
俺が内心で拍手を送っていると、ふと、膝の前で揃えられた彼女の指先が、小刻みに震えているのが見えた。
外見は「氷の令嬢」の完璧な仮面を被っているが、内面はガチガチに緊張しているのだ。
その健気さが、どうしようもなく愛おしかった。
「まあ、ご丁寧にありがとう。朝陽の叔母の、 結子(ゆうこ) です」
「同じく叔父の、 修(おさむ) です」
「電話で声は聞いていたけど、本当に綺麗なお嬢さんね」
おばさんが優しく微笑みかけると、凛は「ありがとうございます」と少しだけ頬を染めて頭を下げた。
「ほら、立ち話もなんだし、リビングに行って」
俺は少し照れくさくなりながら、二人を部屋の奥へと案内した。
リビングのテーブルに案内すると、凛はすぐさまキッチンへ向かい、準備していたお茶とお茶菓子をお盆に乗せて運んできた。
出しゃばりすぎず、俺が作った料理を並べる際も、彼女は阿吽の呼吸で小皿や箸をセットしていく。
「すごいわね、凛さん。この部屋にすっかり馴染んでるじゃない」
「えっ、あ、その……」
おばさんにニコニコと指摘され、凛の仮面が少しズレたように照れ笑いをした。
「ささ、冷めないうちに食べよう。おじさん、おばさん、口に合うといいんだけど」
「いただきます。……うん! この煮物、味がしっかり染みてて本当に美味しいわ! 朝陽、料理の腕を上げたわね」
「本当だな。出し巻き卵も、形が綺麗だし出汁が効いてる」
二人が俺の作った料理を美味しそうに食べてくれるのを見て、俺はホッと胸をなでおろした。
凛も自分のことのように嬉しそうな顔をして、ちびちびとお茶を飲んでいる。
「毎日ご飯の写真を送ってくれるから安心はしてたけど、やっぱり直接食べると違うわね。……凛さんも、普段から朝陽のご飯を?」
「は、はいっ。いつも美味しくて……本当に、感謝しています」
「ふふっ。朝陽も作りがいがあるわねぇ」
おばさんのからかうような視線に、俺は居心地が悪くなってわざとらしく咳払いをした。
食事が進み、和やかな空気が流れる中、おばさんがふと、湯呑みを置いて真面目な顔になった。
「……ねえ、朝陽。おばさんたちね、あなたが『一人暮らしをしたい』って言い出した時、本当はすごく心配だったのよ」
「え……」
「もちろん、あなたの気持ちを尊重したいとは思っていたわ。でも、ちゃんと一人で食べていけるのか、また一人で塞ぎ込んでしまうんじゃないかって……ずっと気がかりだったの」
おばさんの言葉に、俺は箸を止めた。
俺が中学でいじめに遭い、追い詰められて腕を切ってしまった時のこと。
あの時の二人の悲痛な顔は、今でも俺の胸の奥に刺さっている。
「でもね」とおじさんが引き継ぐように、優しく微笑んだ。
「今日の朝陽の顔を見て、安心した。昔みたいに、ちゃんと前を向いて笑えるようになってる。……朝陽がこんなに明るい表情をするようになったのは、冬月さん。君のおかげかな?」
おじさんの真っ直ぐな問いかけに、凛はハッとして顔を上げた。
そして、小さく首を横に振る。
「いいえ……私の方こそ、朝陽くんに救われてばかりです」
凛の震えていた指先は、今はしっかりと膝の上で握りしめられていた。
彼女は、俺の親代わりである二人の目を真っ直ぐに見つめ返して、はっきりと告げた。
「朝陽くんは、不器用かもしれないけど、誰かのために一生懸命になれる人です。……世界で一番優しくて、かっこいい人ですから」
「……っ!」
俺は頭から火を吹きそうになった。
「おい凛、そんなこと……!」と慌てて口を挟もうとしたが、おばさんが手でそれを制した。
おばさんは、凛の真っ直ぐで嘘偽りのない言葉を聞いて、心底嬉しそうに目を細めた。
「あらあら。……そう、世界で一番かっこいいのね」
「っ……はい」
「ふふっ、本当にいいお嬢さん。電話の時ははぐらかされていたから、どういうことかと思ったけれど……おばさんにはよく分かったわ」
完全に二人の関係性を見透かされ、俺も凛も顔を真っ赤にして黙り込むしかなかった。
楽しい昼食会も終盤に差し掛かった頃。
おばさんはテーブル越しにそっと手を伸ばし、凛の震える小さな手を優しく包み込んだ。
「凛さん。これからもこの子のこと、よろしくお願いしますね。……私は、あなたが朝陽の隣にいてくれて、本当に嬉しいわ」
その温かい言葉と、確かな信頼のサイン。
それを聞いた瞬間、凛の大きく見開かれた瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……っ、はい……! 私の方こそ、よろしくお願いします……!」
完璧な淑女の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには、好きな人の家族に認められて感極まって泣いてしまう女の子の姿があった。
おばさんは「あらあら、泣かせちゃったわね」と優しく笑いながら、凛の背中をさすっている。
俺はその光景を見つめながら、心の中で、改めて固く誓っていた。
(……絶対に、この子を幸せにできる男になろう)と。