作品タイトル不明
第191話:決戦前夜と、カチンコチンの令嬢
水曜日の夜から一日が経ち、金曜日の朝。
201号室のダイニングで、一緒に目玉焼きとトーストを食べていると、凛がふと思い出したように言った。
「あ、朝陽くん。今日、帰りに陽菜に誕生日プレゼント渡すの、忘れないでね」
「分かってるよ。……で、放課後はどこに行けばいいんだ?」
俺が尋ねると、凛は少し考えてから答えた。
「駅前の時計台の下で待ち合わせしよ! 私と陽菜は一緒に向かうから、朝陽くんは先に行ってて」
「了解。そこで渡すんだな」
「うんっ。陽菜、喜んでくれるといいな」
水曜日の夕方から夜にかけて、一人でひどく焦っていた凛だったが、今はすっかり落ち着きを取り戻している。
俺たちはいつも通り一緒に登校し、それぞれの教室で金曜日の授業をこなした。
そして、放課後。
俺は一足先に駅前の時計台の下へ向かい、二人を待っていた。
「朝陽くーん、お待たせ!」
「おっつー! 瀬戸も来てくれたんだ」
少しして、凛と一緒に歩いてきた主役の佐藤さんが、嬉しそうに手を振って合流した。
「佐藤さん、誕生日おめでとう。」
「陽菜、おめでとう! はい、プレゼント!」
俺と凛が差し出した小さな紙袋を、佐藤さんは目を丸くして受け取った。
中身を取り出すと、それはあの日ショッピングモールで一緒に選んだ、少し高級なハンドクリームとリップのセットだった。
「えっ! 嘘、これあの時私が『いいなー』って見てたやつじゃん! 二人とも、覚えててくれたの!?」
「うん。陽菜に一番似合うと思って」
「マジでありがとう! 超嬉しい、早速明日から使っちゃおー!」
佐藤さんは本当に嬉しそうに笑って、プレゼントを大事そうにカバンにしまった。
そして、帰る方向が違う俺たちに手を振りながら、悪戯っぽく片目を瞑る。
「ありがとね! ……明日の挨拶、ガチで応援してるから! 二人とも頑張って!」
「明日」という言葉に、凛の肩がピクッと跳ねる。
俺たちは佐藤さんを見送り、アパートへの帰路についた。
金曜日の夜。
晩ご飯を食べ終え、俺たちはリビングで明日の昼食の最終打ち合わせをしていた。
「明日はお昼頃に到着するって言ってたな。俺は煮物と、おばさんの好きな出し巻き卵を作っておくよ」
「分かった。私は、お茶出しとお部屋のセッティングをお手伝いするね」
凛は真剣な表情でコクリと頷き、さらに言葉を続けた。
「お客様をお迎えする時の作法とか……昨日、おばあちゃんから色々と教わったから」
(……ああ、なるほど)
俺は心の中で腑に落ちた。
そういえば水曜日の夕方、凛が自室で誰かと真剣に長電話をしていたのを知っている。
どうやらあの時、凛はマナーに厳しいというおばあ様にSOSを出し、直々にレッスンを受けていたらしい。
彼女が急に落ち着きを取り戻した理由が分かって、俺は少しおかしかった。
「……緊張、してるか?」
「うん、心臓が止まりそう。でも……朝陽くんの大切な人たちに、失礼のないようにちゃんとご挨拶したいから」
「そっか。……俺も、ちゃんとお前のことを紹介するよ」
その後の夜のルーティンを終え、凛が自分の部屋へ戻る時間になった。
俺は隣の202号室まで彼女を送り届ける。
合鍵で中に入り、彼女がパジャマに着替えてベッドの布団にすっぽりと潜り込むのを見届ける。
「明日、よろしくな」
「うんっ。よろしくお願いします、朝陽くん」
俺はベッドの脇に腰を下ろし、布団から顔を出す彼女の頭を優しく撫でた。
少しだけこわばっていた彼女の表情が、俺の手のひらの下でふにゃりと柔らかく解ける。
「おやすみ、凛」
「おやすみなさい」
穏やかな寝顔を見届けてから、俺は自分の部屋へ戻り、明日に備えて深い眠りについた。
そして迎えた、決戦の土曜日。
俺は朝早くから起き出し、部屋の掃除を完璧に済ませてから、キッチンで煮物の仕上げに取り掛かっていた。
出汁の優しい香りが部屋に充満し始めた、午前十時半頃。
コンコン、と控えめなノックの後、リビングのドアがゆっくりと開いた。
「お、おはよう……ございます、朝陽くん」
「おはよう……って、おい」
振り返った俺は、思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
そこには、まるでロボットのように手足が一緒に動いている、ガチガチに緊張した凛が立っていたのだ。
「そんなに緊張しなくていいって。普通にしてろよ」
「ふ、普通にしてるもん……っ」
顔を真っ赤にして唇を尖らせる凛。
しかし、その服装を見た瞬間、俺の笑い気は一瞬で吹き飛び、代わりに心臓がドクンと大きく跳ねた。
今日の彼女は、いつも学校で見ている制服姿とも、部屋着のラフな姿とも違っていた。
上品なネイビーの、少し丈が長めの清楚なワンピース。
白い襟がアクセントになっていて、黒髪ロングの彼女の美しさを際立たせる、高校生らしい可憐さと清潔感にあふれた姿だった。
「……どう、かな。変じゃない……?」
俺が黙り込んでいると、凛が少し不安そうに上目遣いで聞いてきた。
「変なわけないだろ。……すごく可愛いし、綺麗だ。似合ってるよ」
「っ……! ありがと……」
俺のストレートな言葉に、凛は緊張も忘れたように頬をほんのりと赤く染めて、嬉しそうに微笑んだ。
「よし、じゃあお茶の準備をしておくね」
「ああ、お願いするよ」
キッチンに入ってきた凛は、慣れた手つきで急須と湯呑みの用意を始めた。
おばあ様から教え込まれたという彼女は、俺が料理をする動線を一切邪魔することなく、それでいて必要なサポートを的確にこなしていく。
時計の針が、十一時半を回る。
料理の準備はすべて整い、テーブルの上には座布団が四枚、綺麗に並べられている。
「……そろそろだな」
「うん……っ」
俺の言葉に、凛がギュッと両手を握りしめた。
静まり返った部屋に、時計の秒針の音だけが響く。
――ピンポーン。
やがて、アパートの静寂を破るように、玄関のインターホンが明るい音を鳴らした。
ついに、俺たちにとっての『決戦』が幕を開けた。