作品タイトル不明
第184話:変わる視線と、通りすがりの氷点下
月曜日の朝。
「おはよう、瀬戸!」
「おっ、瀬戸おはよう!」
教室のドアを開けた瞬間、いつもなら誰にも気づかれずに自分の席へ向かうはずの俺に、数人の男子から声がかかった。
声をかけてきたのは、体育祭のリレーで一緒に走った陸上部の奴や、クラスの中心グループにいる男子たちだった。
「お、おはよう」
「いやー、マジでお前の走りえぐかったわ! 今度、陸上部の助っ人頼むわ!」
「はは、俺は運が良かっただけだよ。助っ人なんてとんでもない」
俺が苦笑いしながら手を振ると、彼らは「またまた〜」と気さくに笑って自分の席へ戻っていった。
(……なんか、変な感じだな)
今まで、学校での俺は完全に「空気」だった。
でも、体育祭でのリレーの激走がきっかけで、周囲の俺に対する認識が明らかに変わっている。
戸惑いはあるものの、嫌な気分ではなかった。
「凛の隣に堂々と立てる男になる」と決めた俺にとって、こうしてクラスメイトと普通に会話ができるようになることは、自信をつけるための大切な第一歩だと思えたからだ。
だが、変化は男子からだけではなかった。
むしろ、俺にとって厄介だったのは、女子たちの視線の変化だった。
「ねえ、瀬戸くんってよく見ると結構背高くない?」
「わかる! 走ってる時の顔、ちょっとかっこよかったかも」
「普段前髪で目隠れてるけど、ちゃんとセットしたら絶対モテるよね」
休み時間になるたび、教室のあちこちからそんなヒソヒソ話が耳に届くようになった。
これまでは俺のことなんて視界にも入っていなかったはずの女子たちが、あからさまにチラチラとこちらを見ては、コソコソと楽しそうに笑い合っている。
(……やめろ、やめてくれ)
俺は机に突っ伏して、必死に気配を消そうとした。
ただでさえ自分に自信がないのに、急に『かっこいい』なんていうフィルターを通して見られるのは、居心地が悪いどころの騒ぎではない。
何より、俺の心の中には世界で一番可愛くて大好きな『氷の令嬢』がいるのだ。
他の女子からの評価なんて、今の俺には全く必要なかった。
午前中の授業が終わり、昼休みに入る前の短い休み時間。
俺は次の授業の移動のために、少し早めに教室を出て廊下を歩いていた。
「あ、瀬戸くん!」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると、少し派手なグループに所属している他クラスの女子数人が、なぜか俺を囲むように立ち止まっていた。
「えっと……なにか用か?」
「瀬戸くん、体育祭のリレーすっごくかっこよかったよ! もしかして、中学の時とか陸上やってたの?」
「あ、いや、帰宅部だったけど……」
「えー! 嘘、それでめっちゃ速くない!? すごーい!」
女子たちがキャアキャアと黄色い声を上げ、ぐいぐいと距離を詰めてくる。
俺はタジタジになりながら、引きつった愛想笑いを浮かべてジリジリと後ずさった。
「そ、そうかな。それじゃ、俺は移動があるから……」
逃げ出そうとした、その時だった。
スッ……と、廊下の空気が急激に冷え込んだような気がした。
騒いでいた女子たちも、何かの気配を察知したようにふっと声を潜める。
廊下の向こう側から、凛が歩いてきたのだ。
透き通るような白い肌に、一切の感情を読み取らせない整った無表情。
誰もが振り返る完璧な『氷の令嬢』の姿で、彼女は静かにこちらへ向かってくる。
(……凛)
俺が内心でホッと胸をなでおろしたのも束の間。
すれ違いざま、凛の視線が、俺を取り囲んでいる女子たち、そして俺へと向けられた。
その瞳の奥には、氷のような冷たさとともに、絶対零度の『ヤキモチ』がドロドロと渦巻いていた。
『私の朝陽くんに、気安く話しかけないで』
声に出さずとも、その視線だけで彼女の強烈な独占欲と怒りがひしひしと伝わってくる。
(正直、ちょっと嬉しい…。)
俺の背筋に、ゾクッと氷を当てられたような悪寒が走った。
俺と凛の視線が、ほんの一瞬だけバチッと交差する。
凛は何も言わず、ただ無言のまま、冷ややかなオーラを撒き散らして俺たちの横を通り過ぎていった。
「……うわぁ、今の冬月さん、なんかすごく怖くなかった?」
「うん、目合った瞬間、凍りつくかと思った……」
凛が通り過ぎた後、女子たちがブルッと肩を震わせて囁き合っている。
俺は心の中で、全力で冷や汗をかいていた。
(……終わった。これ、絶対に後でめちゃくちゃ怒られるやつだ……!)
両思いになってからの彼女の「ガンガンいく」という宣言。
それが、家の中だけの甘いものにとどまらず、俺に近づく他の女子を排除するための容赦ない圧力としても発揮されることを、俺はこの時初めて悟ったのだった。