作品タイトル不明
第173話:凛烈の令嬢と、見惚れるサポーター
体育祭の午前の部も佳境に入り、グラウンドの熱気は最高潮に達していた。
用具係の仕事が一段落した俺は、倉庫の影でスポーツドリンクを口に含み、次の競技の準備を待っていた。
『――続いての競技は、二年生女子による障害物競走です。選手はスタート位置についてください』
放送委員のアナウンスが響くと、俺の心臓が不自然に鼓動を速めた。
いよいよ、凛の出番だ。
俺は用具係の特等席とも言える、ゴールのすぐ近くの待機スペースへ移動し、スタートラインに目を向けた。
そこには、クラスのカラーハチマキをポニーテールにきゅっと結んだ凛が、真剣な面持ちで立っていた。
制服姿も清楚で綺麗だが、体操服姿の彼女は、なんというか、すっごく健康的で、眩しかった。
「おい、見ろよ。次のレース、冬月さんだぞ」
「マジか! 体操服姿の冬月さん、初めて見たけど……きれいっていうか、可愛いっていうか、反則だろ」
「スタイル、良すぎじゃない? あの白いTシャツとショートパンツから伸びる足とか、体のラインとか……普段の清楚な感じからは想像できないっていうか、たまらんよな」
俺の近くにいた他クラスのモブ男子たちが、凛を見てヒソヒソと、けれど隠しきれない興奮を滲ませながら話しているのが聞こえてきた。
(……おいおい、お前ら。あいつをそんな目で見るなよ)
と、内心で毒づきながらも、俺自身、彼女の健康的な美しさに、不覚にも目を奪われていた。
家で見せる、あの無防備で緩い姿とは違う。
学校という場での、シャキッとした『氷の令嬢』の体操服姿。
そのギャップに、俺の理性が少しだけ揺らぐのを感じた。
パンッ! という乾いた銃声と共に、レースがスタートした。
「――っ!」
俺は思わず、持っていたスポーツドリンクのペットボトルを強く握りしめた。
凛のスタートは完璧だった。
銃声と同時に、しなやかな動作で飛び出すと、一気に加速。
最初の障害物である網くぐりも、一切の無駄なく、まるで猫のようにスムーズに潜り抜けた。
(あいつ……あんなに凄かったのか……?)
俺は、目の前で繰り広げられる光景に、衝撃を受けていた。
俺が一番よく知っている凛は、朝、寝起きでぽてぽてしながら近寄ってきて、眠そうに甘えてくる、緩くて可愛くて一生懸命な女の子だ。
でも、今目の前で走っているのは、その「緩さ」なんて微塵も感じさせない、力強く躍動するアスリートのような女性だった。
網を潜り抜け、次は平均台。
バランスを崩すことなく、スイスイと渡りきる。
その後のハードルも、ポニーテールを激しく揺らしながら、軽快に飛び越えていく。
家でのあの甘えん坊な凛と、学校で見せるこの凛烈な凛。
その凄まじいギャップに、俺は圧倒されていた。
あんなにぽてぽてしていたあいつが、こんなに速くて、しなやかで、かっこいいなんて。
俺は、自分の知らない彼女の一面を突きつけられたような気がして、心臓が痛いくらいに速く打ち鳴らされるのを止められなかった。
額に浮かぶ汗が太陽に反射して宝石のように輝き、真剣な眼差しで前を見据えて走る彼女の姿は、この広いグラウンドの誰よりも輝いて見えた。
(やっぱり、すごいんだな、あいつは……)
俺は、改めて彼女の存在の大きさと、その魅力の凄まじさを実感していた。
圧倒的な差をつけて、凛は最後の直線を駆け抜け、1位でゴールテープを切った。
ゴール直後、彼女は肩で息をしながら、少し乱れた髪を手で払い、前かがみになって膝に手をついた。
その、少し乱れた姿さえ、絵画のように美しく、俺は目が離せなかった。
周囲の観客からは、割れんばかりの拍手と歓声が凛に送られていた。
モブ男子たちは、「見たか!? あの冬月さんの走り! 凄すぎだろ!」と、興奮を隠せない様子で盛り上がっている。
凛は、自分の活躍に熱狂する周囲の男子たちには目もくれず、息を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。
そして、真っ直ぐに、用具係の待機スペースにいる俺の方へ視線を向けてきたのだ。
(あ……)
目が、合った。
凛は、朝陽くんにだけ分かるように、不敵に、そして「どうだった?」と夸らしげに、フッと口角を上げて笑ってみせた。
その瞬間、俺の胸の奥が、キュンと締め付けられた。
あんなかっこいい走りの後に、俺にだけ、あんな特別な笑顔を向けてくるなんて。
周囲の男子たちが彼女の活躍に熱狂している中で、彼女が見ているのは俺だけ。
その事実に、俺は顔が火照るのを止められなかった。
(……怪我しなくて、よかった)
俺は、理性を総動員して、湧き上がる独占欲を抑え込み、サポーターとしての冷静さを保とうとした。
家で見せるあの甘えん坊な凛が、学校でこれだけ頑張って、そして無事に競技を終えた。その事実に対する安堵の方が、今は大きかった。
彼女がこれだけ綺麗で、これだけ輝いているんだから、周りの連中がちやほやするのは当然だ。
嫉妬ではなく、彼女を誇らしく思う感情が沸き上がる。
彼女が他の誰よりも輝いていること、そしてその彼女が、俺にだけ特別な笑顔を向けてくれたこと。
その事実を噛み締めながら、俺は彼女がクラスの陣地へ戻っていく後ろ姿を、誇らしげに見守っていた。
『――午前の競技は、これにて終了です。生徒の皆さんはお昼休みに入ってください』
放送委員のアナウンスが流れ、午前の部が終了した。
凛の輝きが目に焼き付いて離れないまま、俺は、少しだけソワソワした気持ちを抱えて、お昼ご飯の準備を始めるのだった。