作品タイトル不明
第171話:勝負の朝と、親友との内緒話
金曜日。体育祭当日の朝。
午前五時。
外はまだ薄暗く、静寂に包まれている中、俺はすでにキッチンに立っていた。
換気扇を回し、昨日から特製のタレに漬け込んでおいた鶏モモ肉にたっぷりと片栗粉をまぶしていく。
油の温度を菜箸で確かめ、そっと肉を落とすと、ジュワァッという小気味良い音がキッチンに響き始めた。
サポーターの朝は早い。
特に今日は朝から夕方まで動き回る、体力勝負の体育祭だ。
「二度揚げで、外はカリッと……中はジューシーに、だな」
揚げ物の香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。
隣のコンロでは、凛の強いリクエストである少し甘めの卵焼きを丁寧に巻き上げ、昨日一緒にスーパーで試食して買ったタコさんウインナーをこんがりと炒めた。
彩り用のブロッコリーとミニトマトも添えて、見栄えも栄養バランスも完璧。
それらを、俺と凛、それぞれ別々のお弁当箱に綺麗に詰めていく。
(今日一日、あいつが怪我なく、全力で頑張れるように)
ただ純粋な応援の気持ちを込めながら、俺は最後にお弁当の蓋をカチッと閉じた。
(凛視点)
ジリリリリ、と枕元の目覚まし時計が鳴る。
パチリと目を覚まして布団から抜け出した。
いよいよ、体育祭本番の日。
そして私にとっては、競技以上に大切な意味を持つ日だ。
(……今日、体育祭が終わったら)
トクン、と心臓が少しだけ早く脈打つ。
深呼吸をしてから洗面所へ向かい、丁寧に顔を洗ってスキンケアを済ませる。
鏡の前で自分の顔を見つめ、小さく両頬を叩いて気合を入れた。
告白をするために、まずは自分に自信をつけたい。
だから今日の競技は、彼に少しでも私の魅力が伝わるように、全力で取り組もうと心に決めていた。
私は部屋着のまま自室を出て、隣の201号室へと向かった。
鍵を開けてそっとドアをくぐると、食欲をそそる揚げ物の匂いと、お出汁の優しい香りがフワッと漂ってくる。
キッチンを覗くと、エプロン姿の朝陽くんが、出来上がったお弁当の粗熱を取っているところだった。
私は足音を忍ばせて後ろから近づき、彼の広い背中にギュッと抱きついた。
「おわっ!? ……びっくりさせんなよ。おはよう」
少し肩をビクッとさせた朝陽くんだったが、振り払うことなく私の腕を受け入れてくれた。
「おはよう、朝陽くん。ふふっ、唐揚げすっごくいい匂い。朝早くからお弁当、ありがとう」
「おう。ばっちりお前のリクエスト通りに作っといたからな。楽しみにしてろ」
朝陽くんが少し得意げに言うので、私は嬉しくなって背中に頬を擦り付けた。
「私、今日は絶対にかっこいいところ見せるからね」
全ては、放課後の告白に弾みをつけるため。私が気合を入れて宣言すると、朝陽くんは「おう」と頷いてから、少し呆れたような、でもとても優しい声を出した。
「でも、張り切りすぎて怪我だけはしないようにな」
「……うんっ」
いつだって私のことを第一に考えてくれる彼の優しさに触れて、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
その後、私たちはダイニングテーブルに向かい合って座り、部屋着のままで簡単な朝食をとった。
メニューはお弁当のおかずの端切れと、朝から体を温めるための野菜スープだ。
「美味しい。これなら今日一日、全力で走れそう」
「それは良かった。まあ、昼飯の時まで体力温存しとけよ。お前のクラス、午前に障害物競走もあるんだろ?」
「うん。朝陽くんは午後からリレーだよね」
そんな何気ない会話を交わしながら朝食を終え、私は「着替えてくるね」と一度自分の部屋へ戻った。
体操服を下に着込み、上から制服を羽織って髪を整える。
準備を終えて再び201号室のドアを開けると、朝陽くんが私のお弁当箱を包んだ可愛いランチバッグを持って待っていてくれた。
「ほら、お弁当。忘れるなよ」
「ありがとう。……じゃあ、私、先行くね。行ってきます」
私がランチバッグを受け取ると、朝陽くんはいつものように少し照れたような、でも穏やかな笑顔を向けてくれた。
「おう。行ってらっしゃい」
噂にならないよう、登校時間はいつもズラしている。
彼からの真っ直ぐな言葉に背中を押されるようにして、私は一足先にアパートを出発した。
学校に到着すると、グラウンドはすでに各クラスのテント設営や用具の準備で活気づいていた。
制服を脱いで体操服姿になり、自クラスの陣地に向かうと、陽菜が手を振って駆け寄ってきた。
「凛、おはよう! いよいよ体育祭だね」
「おはよう、陽菜」
陽菜は周りに他のクラスメイトがいないことを確認すると、声を潜めて私の顔を覗き込んできた。
「ねえ、凛……いよいよ今日だね。本当に、言うの?」
その真剣な眼差しに、私はゆっくりと、けれど力強く頷いた。
「うん。今日、体育祭が終わったら……全部伝えるよ」
「そっか。……ついにだね。なんだか、私までドキドキしてきちゃった」
陽菜が自分の胸に手を当てて小さく息を吐く。私はクスッと笑ってから、少しだけ視線を落とした。
「……でもね、絶対に今日、返事はもらえないと思う」
「えっ? なんで?」
陽菜が目を丸くする。私は苦笑しながら、彼の不器用で優しすぎる性格を思い浮かべた。
「朝陽くんだもん。自分の自己評価が低くて、すっごく真面目だから……いきなり『はい、付き合いましょう』なんてならないと思う。私がどれだけ本気なのか、まずはちゃんと私の気持ちを知ってもらうのが、今日の目標なの」
「あー……」
陽菜は深く納得したように、うんうんと頷いた。
「確かに。あの瀬戸だもんね。色々と考えすぎちゃいそう」
「でしょ? だから、長期戦になる覚悟はできてるよ」
私がそう言うと、陽菜は「凛は強いね。応援してるからね」と優しく微笑んでくれた。
ふとグラウンドの端を見ると、用具係のビブスを着た朝陽くんが、パイプ椅子を何脚も抱えて忙しそうに走り回っている姿が見えた。
今日は係の仕事があるから、お昼休みまではあまり話す機会はないかもしれない。
今は遠くから見つめるだけだ。
けれど、誰かのために一生懸命に働く彼の姿を見ているだけで、私の心はポカポカと温かくなる。
(朝陽くんのお弁当を食べて、今日は絶対に一番を取る)
彼に一番かっこいい私を見せて、そして放課後、この想いを伝えるために。
澄み切った秋晴れの空を見上げながら、私は静かに闘志を燃やした。