作品タイトル不明
第167話:甘えと、サポーターの理
金曜日。
放課後、アパートのダイニングテーブルで、俺と凛は向かい合って座っていた。
俺は広げたノートに向かって数学の宿題を進め、向かいの凛はタブレット端末を取り出し、専用のペンを走らせてイラストレーターとしての作業(キャラクターのラフ画制作)を行っている。
真剣な眼差しで画面に向かう彼女の横顔は、学校で見せる『氷の令嬢』とも、俺の前で見せる無防備な顔とも違う、プロのクリエイターとしての凛とした表情だった。
「……そういえば凛、最近少し仕事のペース落としてるのか?」
俺が宿題の手を止め、ふと気になって尋ねると、凛はタブレットから顔を上げて微笑んだ。
「うん、分かった? 実はね、クライアントさんに相談して、今は少しだけ仕事量を減らしてもらってるんだ」
「へえ、そうなのか。なんかあったのか?」
「だって、来週は体育祭の練習が本格的になるし、それが終わったらすぐに前期期末テストも控えてるでしょ? 両立できなくてクオリティが下がっちゃうのが一番ダメだから、今のうちにスケジュールを調整させてもらったの」
「なるほどな……」
俺は心底感心して頷いた。
高校生でありながらプロのイラストレーターとして活躍しているだけでも凄いのに、学校行事やテストといった学生としての本分も疎かにせず、しっかりと自己管理ができている。
「やっぱり、お前はすごいな。尊敬するよ」
俺が素直に称賛の言葉を口にすると、凛は嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。でも、私がこうやって仕事に集中できるのも、朝陽くんが毎日美味しいご飯を作ってくれて、色々とサポートしてくれるおかげだよ」
「い、いや、俺はただのサポーターだし、当たり前のことをやってるだけで……」
「またそうやって謙遜する。私は朝陽くんにすっごく感謝してるんだからね」
凛は柔らかく笑うと、再びタブレットに向かってペンを走らせ始めた。
その笑顔を見ていると、俺の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
仕事と宿題がひと段落し、夕食、お風呂、そして日課のストレッチとマッサージをすべて終えた後のリラックスタイム。
就寝までまだ少し時間があったため、俺はリビングのソファに腰を下ろし、テレビのチャンネルを回していた。
すると、「お隣いい?」と軽い足取りでやってきた凛が、迷うことなく俺の隣に座った。
そして、昨日よりもさらに距離を詰め、俺の左腕に自分の両腕をギュッと絡ませてきたのだ。
「なっ……!?」
「んー……今日のテレビ、何観るの?」
凛は俺の腕に頬をすりすりしながら、そのままコテンと肩に深く寄りかかってきた。
お風呂上がりの温かい体温と、フローラル系の甘い香りが、俺の鼻腔と理性をダイレクトに刺激する。
「お、おい凛……ちょっと近くないか?」
俺が引き攣った声で尋ねると、凛は上目遣いで俺を見つめてきた。
「えー? ダメ? 私、こうしてるとすごく安心するんだけどな……」
潤んだ瞳でそんなことを言われてしまえば、俺に拒否権などあるはずがない。
(突き放したら、サポーターとしての信頼関係が……!)
俺は不自然に体を強張らせながら、「……いや、いいけど」と答えるしかなかった。
「えへへ、ありがとうっ」
凛はさらにギュッと腕に力を込め、俺の肩に体重を預けてきた。
(これ、俺が安全パイだからやってるんだよな……? いくらなんでも無防備すぎないか!?)
俺の思考は完全にパニック状態に陥っていた。
腕に絡みつく柔らかな感触。肩から伝わる彼女の心音。
(俺だって男だぞ……こんなに無防備にくっつかれたら、勘違いしそうになって苦しいんだよ……)
本音を叫び出したい衝動を必死に抑え込み、俺はただただテレビの画面を見つめ続けるしかなかった。
時折、凛がテレビの内容に反応して笑うたびに、彼女の体が揺れて俺の腕に柔らかいものが押し付けられる。
その度に俺の心拍数は跳ね上がり、寿命がゴリゴリと削られていくのが分かった。
パニックになりつつも、チラリと横目で彼女の顔を見ると、凛は本当にリラックスした様子で、とても幸せそうな表情を浮かべていた。
学校では『氷の令嬢』として気を張り詰めている彼女が、俺の隣でだけ、こんなにも無防備に羽を伸ばしてくれている。
(……まあ、凜がこんなに安心できるなら、俺が少し我慢すればいいだけの話か)
俺は深い溜め息を一つこぼし、甘い諦めの境地に至った。
サポーターとしての俺の存在意義が、彼女の笑顔を守ることにあるのなら、この苦しみも甘んじて受け入れよう。
「朝陽くん……」
ふと、凛が小さな声で俺の名前を呼んだ。
「なんだ?」
「来週から、体育祭の全体練習が本格的に始まるね。……忙しくなるね」
凛は俺の肩に頭を乗せたまま、少しだけ顔を上げて微笑んだ。
「でも、朝陽くんがそばにいてくれるから、私、すごく心強いよ。……いつもありがとうね」
真っ直ぐな感謝の言葉に、俺は顔にカッと熱が集まるのを感じた。
「お、おう……。俺も、お前が全力で楽しめるように、しっかり支えるからな」
照れ隠しにぶっきらぼうに答えると、凛は「うんっ」と嬉しそうに頷いた。
(……体育祭、か)
俺は心の中で、来週から本格化する行事に思いを馳せた。
だがそれと同時に、俺のこの脆い理性が、体育祭本番まで果たして持ち堪えることができるのか、本気で心配になり始めていた。