軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

30.幼女の『そこはかとない』日常を覗き見する会~激震~

「ぐ、ぁ……ッ」

半目で眺めていたクロニクルの耳が、掠れた呻き声を拾った。

氷山よりも底冷えする視線をディーンに投げかけると、ぶは、と盛大に鼻血を吹き出している。

「こ、この紋章は間違いなくトルティア王国。レティシア様を攫い、監禁するとは……」

膝からガクリと崩れ落ちた。

水盤の縁に、腫れあがるほど強く額をぶつけながらも、目だけはレティシアから離さない。

ハァハァと息を乱しながら、持ちうるすべての力を振り絞り、ディーンは顔を水盤ギリギリまで近づけた。

「トルティア王国め……ボクのレティシア様を、何という……何というお姿に……ッ」

ぽたぽたと血が垂れ落ちる鼻を押さえもせず、震える声でディーンは続ける。

「だが、だが、可愛い」

幼女姿の魔法帝が、琴線に触れたのだろうか。

正直クロニクルでさえ、強請られたら最後、すべての財産をつぎ込んでしまいそうなほどに可愛かった。

それがディーンであればなおさらである。

「可愛いぞレティシア様……!! 幼女姿でも可愛い、いや幼女姿だからこそなお……いや待て、それは駄目だ、ボクは別にそういった趣味嗜好は持ち合わせていない。落ち着け、だが可愛いすぎる」

言ってから、ディーンは何かを堪えるように両手で顔を覆った。

「師団長、今すぐその水盤を割ってもいいですか」

クロニクルが、静かに問いかける。

腐りかけのゴミを見るような目で。

「この水盤に触れるな。絶対に許さんからな!?」

普段は大人しいクロニクルの本気を察知して、ディーンは水盤を両腕で抱え込んだ。

そのまま食い入るように映像を眺め続ける。

こんな真剣な顔、危険度Sランクの魔獣討伐の時ですら、見たことがない。

垂れ落ちるに任せた鼻血は水中花のように広がり、並々と注がれた水が桃色に染まっていく。

その時、映し出された映像の中で、幼女レティシアが振り返った。

見たことがないほど嬉しそうに輝く瞳。

まるで自分に向けられたように見え、ディーンの呼吸が止まる。

レティシアが魔法師団に連れて来られたのは、確か七歳のときだった。

同期のディーンとクロニクルは、ともに九歳。

その頃から信じられないほど美しかったが、その瞳は暗く沈んでいたと記憶している。

笑うようになったのは、魔法師団に入ってから、一年ほど経った頃だ。

かれこれ十六年の歳月をともに過ごしているが、レティシアの子どもらしい姿など、一度も見たことがなかった。

――その、レティシアが。

いかに幼女の姿に戻ろうと、精神は二十五歳を保っているであろうレティシアが、幼子のように頬を赤らめ、何かを話しかけている。

映像の中には、見知らぬ男がいた。

二十歳を過ぎたくらいだろうか、鍛え上げられた巨躯を持つ、精悍な顔立ちの男。

ディーンの目が、すうっと細くなる。

表情は変わらないが、レティシアに向けるその眼差しは暖かく、わずかに手を広げれば、あのレティシアが笑顔で膝によじ登っている。

およそ子煩悩には見えないその男へ、信頼に満ちた眼差しを向けているのだ。

ふざけてじゃれる時もあり、幼いレティシアに危険が及ばないよう、配慮している様子が見て取れる。

クッキーを食べやすいサイズに割っては、手ずから与えている。

絵本を読み聞かせ、肩車までしてあげている。

二人の関係は分からないが、確かな信頼関係がそこにはあった。

「……誰だ、この男は」

レティシアの唇の動きを読む。

「ロイド? ロイドと、言ったのか」

先ほどまでの取り乱した様子が嘘のように消え、ディーンが繰り返し、ブツブツとその名を呟く。

温度を伴わない声は赤く濁った水面を揺らし、震える指先が、水盤の縁を神経質に叩いた。

「トルティア王国の辺境伯に、そのような名の者がおりましたね」

「……ロイド・セシリオ」

あまり他人に興味を示さないディーンですら知っている名だった。

これまで一度として敗走したことがないという、敵国の英雄。

近隣諸国からは、冷血将軍の名で恐れられている男だ。

その男が今……なぜか幼女の姿になったレティシアとともに、ベッドに横たわっている。

安心しきった顔で眠るレティシアを、腕の中に、抱きしめるようにしながら。

「……」

ディーンの額に、ピシリと青筋が浮かぶ。

顔は土気色で、今にも倒れそうなほど具合が悪そうに見える。

「師団長?」

返事がないので、もう一回。

「師団長、大丈夫ですか? 今日はもうゆっくりお休みになられたほうが……」

「幼女趣味の……」

ぎり、と歯を食いしばる音がした。

「幼女趣味の、変態野郎がァッ!!」

バルコニーに怒声が響き渡り、水盤が揺れる。

「ふ、ふざけるなよ!? ボクの、ボクのレティシア様に、な、何をしているんだァッ!!」

荒ぶるディーンの魔力に反応し、魔塔の外壁に刻まれた魔法文字が、ぶわりと赤く光る。

夜風が荒れ、バルコニーの植木が根こそぎ吹き飛んだ。

「許さん……許さんぞロイド。レティシア様が幼子なのをいいことに、さも当然のように共寝し、お体に触れ、半ば強制的に同じベッドで腕に抱き……」

「師団長」

「お前ごときに、そんな資格があると思っているのか!?」

「……師団長?」

「何だ!!」

「あの……言いづらいのですが、幼女とはいえあのレティシア様です。『強制的に』された行為を受け入れるとは思えないのですが……」

クロニクルは、おそるおそる口を開いた。

「レティシア様、すごく健やかに……ぐっすり眠ってますよね」

「それがどうした」

「自分から膝の上に乗っていたように見えたのですが」

一瞬の沈黙。ディーンだってそれは分かっているが、どうしても認めたくないらしい。

ギリギリと歯噛みしながら、必死に怒りを堪えている。

「…………黙れ」

「いえ、だって嫌がってる様子もなく、むしろ――」

「うるさい、黙れと言っている!!」

ディーンの怒声が、満月の夜空に吸い込まれていく。

もうこの会話、何度目だろう。

クロニクルは遠い目をしながら、胃を押さえた。

今夜も、長くなりそうだ。

……反省は、たぶんしてない。

***

それから一時間が経ち、二時間が経ち……。

一件落着かと思いきや、長い夜は、まだ終わりそうになかった。

あれから三時間が経過したというのに、ディーンは水盤の縁に額をつけたまま、ぴくりとも動かないのだ。

鼻血はとっくに止まったが、思ったよりも出血量が多かったようで、顔はまだ土気色をしている。

暇さえあれば口を動かすあのディーンが、先ほどから一言も喋らないのだ。

放心、というのが最も近い状態だった。

もう夜も更けたし、眠いしで、放置して帰ろうかとも思ったのだが、その落ち込みようはただ事でなく、正直本気で心配である。

クロニクルはディーンのもとに歩み寄り、ポンと軽く肩を叩いた。

「師団長、聞こえてますか」

「……聞こえている」

相変わらず水盤の縁に額を付けたまま、消え入るように小さな声。

良かった、意識は保てているらしい。

「あの、ですね」

困った男ではあるが、彼のレティシア愛は理解している。

さすがに可哀想になってきて、クロニクルは少し考えてから慎重に言葉を選んだ。

「さっきのダイジェスト、あれはたまたまだと思いますよ」

ピクッとディーンの耳が反応する。よしよし、手応えありだ。

「ロイドという将軍が近くにいますが、レティシア様は幼女ですし、やむを得ない状況があるのではないですか? あの状況で、あのお姿で、……いくら何でも不自然です」

小さな子どもに言い聞かせるように告げると、ディーンがゆっくりと顔を上げた。

「……そう思うか?」

「勿論です。それに」

満身創痍のディーンに代わり、クロニクルが水盤に触れる。

零れ落ちた鼻血をふわりと浄化すると、透明な水が月明りを受けて反射した。

「……ダイジェスト、まだもう一夜分ありますよね?」

クロニクルは水盤を一瞥し、それからゆっくりと魔力を流し込む。

澄んだ魔力に背中を押されるようにして、ディーンが身体を起こした。