作品タイトル不明
第23話 女侯爵の春
長く、冷酷な冬の時代は去り、ロイド侯爵領には目も眩むような鮮やかな春が訪れていた。
本邸の広大な庭園には、色とりどりの薔薇が咲き誇り、うららかな陽光が白亜の城館を優しく包み込んでいる。かつて陰惨な不倫劇の舞台となり、あの哀れな親子が息を潜めていた庭園の離れは、とっくの昔に跡形もなく取り壊され、今は美しい大理石の噴水へと姿を変えていた。
「母上、こちら今期の領地報告書と親睦会の書類です。叔父上に教えていただきながら自分なりに目を通し、分類してみました! 間違いがないか、お時間のある時に確認をお願いします」
執務室の重厚な扉を開けて入ってきたのは、十二歳になったロイド侯爵家次期当主、リチャードだった。
少年のあどけなさを残しながらも、その佇まいは貴族そのもの。キリリと男らしい眉、すべてを見透かすような深く昏い黒色の瞳。美しい所作で書類を差し出す我が子を見つめ、パトリシアの気高き美貌に、ふっと温かい微笑みが浮かぶ。
「ありがとう、リチャード。本当に助かるわ。貴方が居てくれれば、ロイド侯爵家の未来は永劫安泰ね」
「勿体なきお言葉です、母上。私は、母上が命懸けで守り抜いてくださったこの家門を、さらに繁栄させるために存在しているのですから」
リチャードの聡明さは、すでに王都の社交界でも神童と噂されるほどだった。前侯爵夫妻からも後継者として絶大な信頼を寄せられ、領民たちからも「若き至宝」と慕われている。
この子が誰の血を引いているのか、その真実を知る者は、この世界にたった二人しかいない。けれど、そんなことはもうどうでもいいことだった。リチャードこそが、パトリシアがすべての尊厳を懸けて手に入れた、完璧なる「光」なのだから。
リチャードが次の講義のために一礼して部屋を去ると、入れ替わるようにして、静かに部屋へ入ってくる影があった。
「相変わらず、惚れ惚れするほどの聡明さだね、パトリシア様。……いや、偉大なる女侯爵閣下、とお呼びすべきかな」
低く、耳に心地よい掠れた声。
漆黒の仕立ての良い上着をまとい、不敵な、けれど深い親愛の情を瞳に宿して歩み寄ってきたのは、ラヴァル伯爵家当主オリビエ・ラヴァルだった。
「お戯れを、オリビエ様。貴方という『良き相談役』がいなければ、私の独り立ちもこれほど円滑には進みませんでしたわ」
パトリシアが差し出した白い手に、オリビエは当然のような所作で唇を落とした。
ウィリアムという共通の「害獣」を排除して数年。オリビエは親族の代表として、そしてロイド侯爵家の筆頭相談役として、合法的にパトリシアの傍らに侍り続けていた。彼がもたらす完璧な政治的助言と経済的支援により、ロイド侯爵領はかつてないほどの繁栄を遂げている。
二人の関係を、周囲の貴族たちは「不届きな弟に泥を塗られた者同士、固い絆で結ばれた理想的な協力関係」と称賛した。誰も、この二人の間に流れる、甘く昏い背徳の香りに気づく者はいない。
「風の噂で聞いたよ、パトリシア様」
オリビエはパトリシアのデスクの傍らに寄り添い、窓の外を眺めながら静かに口を開いた。
「北の最果て、吹きさらしの男爵領へ送られた『彼ら』の近況だ」
「あら……。私、平民の動向には興味がありませんの。でも、貴方がお話しになりたいのなら、聞いてあげてもよくてよ」
パトリシアは澄ました顔でハーブティーを口に含む。
「かつて貴方の夫だった男は、今や見る影もないそうだ。慣れない平民の暮らしと過酷な労働に精神を病み、毎日酒に溺れては、あの哀れな女に暴力を振るっているらしい。女の方も、泣きながら泥水をすする毎日だとか。
幸いにも、まだ十代半ばのシリルだけは、彼らの元から引き離されて別の土地で平穏な生活を送っているようだが……残された二人は悲惨なものだ。
彼らは今、互いを『お前のせいで人生が狂った』と激しく呪い合いながら、逃げ場のない生き地獄を這いずり回っているよ」
「……そう」
パトリシアの緑の瞳に、憐れみなどひとかけらも浮かばなかった。
かつて「何も悪いことはしていない」とぬるま湯の中で家族の真似事をしていた罪人たちは、今、自らが招いた選択の代償として、永遠に終わらない互いへの憎悪という檻に閉じ込められている。殺すよりも残酷な、完璧な処罰だった。
「そしてね、パトリシア様」
オリビエが一歩、距離を詰める。彼の長い指先が、パトリシアの美しい金の髪にそっと触れた。
「我が息子、リチャードの顔を見るたびに思うのだよ。あの愚かな弟から、貴方という至高の薔薇を、そしてこの輝かしい未来のすべてを奪い去って、本当に良かったとね」
「ふふ、人聞きが悪いわ、オリビエ様。貴方は何も奪ってなどいません。……私が貴方を選び、貴方が私に応えた。これは、私たちが自らの意志で掴み取った『勝利』ですわ」
パトリシアは隣に立つオリビエに、心からの信頼を込めた眼差しを向けた。オリビエもまた、優しく頼もしい笑みでそれに応え、二人は光に満ちた広大な庭園を見つめた。
かつて愛が死んだあの夜、私は魂を悪魔に売り、背徳の道を選んだ。
けれど今、私の腕の中には、世界で最も愛しい我が子と、私を誰よりも理解し、支えてくれる本物の男がいる。誰に後ろ指を指されようとも、この光に満ちた春の景色こそが、私たちが築き上げた真実の楽園。
完璧なる女侯爵の冷徹な知略と、影の男の深い執着がもたらした栄華の物語は、一点の曇りもない完璧な春の光の中で、どこまでも美しく、永久に続いていくのだった。