作品タイトル不明
第20話 最後の晩餐
その日の夕食は、ロイド侯爵家本邸の、最も格式高い大食堂で用意されていた。
天井のクリスタルシャンデリアが眩いほどの光を放ち、長大な大理石のテーブルには、これ以上ないほど豪華な宮廷料理が並んでいる。
しかし、その場に流れる空気は、さながら処刑場のように凍りついていた。
「パ、パトリシア……。今日の夕食は、随分と豪華だね。何か特別な記念日だったかな?」
テーブルの末席に座るウィリアムは、引きつった笑みを浮かべながら、喉を鳴らした。ここ数年、リチャードの成長とともに精神を摩耗させていた彼は、頬が痩せこけ、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
中央の席に座るパトリシアは、一寸の乱れもない完璧な所作でナイフとフォークを動かしていた。その横には、七歳になったリチャードが、すでに非の打ち所のない高貴な作法で静かに食事を摂っている。その黒い瞳、キリリとした眉は、やはりウィリアムとは似ても似つかない。
「ええ、ウィリアム様。今日はとても特別な日ですわ」
パトリシアは静かにグラスを置いた。その緑の瞳がウィリアムを捉えた瞬間、給仕していた侍女たちが一斉に下がり、大食堂の重厚な扉が内側から固く閉ざされた。
カチャ、と鍵の締まる音が響く。ウィリアムの背中に冷たい汗が伝った。
「――リチャード。貴方はもう下がりなさい。ここから先は、大人の醜いお話です」
「はい、母上」
リチャードは小さく一礼すると、一度もウィリアムの方を見ることなく、別室へと去っていった。その徹底した無関心こそが、ロイド侯爵家におけるウィリアムの「現在の価値」を証明していた。
部屋に遺されたのは、パトリシアとウィリアム、そして影のように控える老執事のみ。
「さあ、《《最後の》》晩餐を始めましょうか、ウィリアム様」
パトリシアが軽く指を鳴らす。
すると老執事が、ずっしりと重みのある革張りの箱をウィリアムの前に置いた。蓋が開けられ、中に詰め込まれた膨大な書類の束が露わになる。
「……っ、これは、何だ?」
「貴方がこの十年間、ロイド侯爵家という大樹に寄生し、貪り尽くしてきた『裏切りの記録』のすべてですわ」
パトリシアの声には、怒りすら入っていなかった。ただ淡々と、罪人の罪状を読み上げる裁判官のそれだった。
「中をご覧なさい。貴方がバレリーという無力な女を市井に囲っていた頃の、ラヴァル伯爵家からの金の流れ。彼女を不法にこの屋敷の離れに連れ込んできてからの、密会記録が千六百八十回分。日時、滞在時間、目撃した使用人の署名と指印がすべて揃っています」
「な、何を今更……! その話は、七年前に終わったはずだ! 君だって、僕を放逐しないと――」
「終わってなどいません。私はただ、時期を待っていただけです」
パトリシアは冷酷に言い放った。
「あの時は、まだリチャードが生まれていなかった。ロイド侯爵家の跡継ぎが確定していない段階で、貴方の不貞を公にすれば、家門の醜聞となりかねなかった。だから、泳がせてあげたのですよ。リチャードが健やかに育ち、前侯爵夫妻や家臣たちから完璧な後継者として認められる、今日のこの日までね」
ウィリアムの頭の中で、すべての点と線が繋がっていく。
彼女は最初から、自分を許してなどいなかった。リチャードという「完璧な盾」を手に入れるための時間稼ぎとして、自分を父親だと勘違いさせたまま、ぬくぬくと飼い殺しにしていたのだ。
「そんな……、そんな残酷なことが……! 君は、僕がリチャードをどれだけ愛しているか知っているだろう! あの子は私の、私と君の子供なんだぞ!」
「まだそんな滑稽な妄想に縋っているのですか」
パトリシアの唇が、この日初めて、三日月のような形の冷笑を刻んだ。
「貴方は本当に、どこまでも愚かで、救いようのない無知な男。……リチャードのあの顔、あの聡明な頭脳、あの冷徹な佇まい。誰に似ているか、本当に、本当に気づいていないのですか?」
「あ……」
ウィリアムの脳裏に、いつも「親族」として不敵な笑みを浮かべ、自分からパトリシアとリチャードを奪うように間に割って入っていた実兄――オリビエの顔がフラッシュバックした。
「嘘だ……嘘だ! 兄上は優しかった! 僕をいつも励まして――」
「貴方が離れで、あの無力な女の身体を貪っていたあの夜。貴方の『優しいお兄様』は、私のベッドの中で、貴方への極上の復讐の種を、私の内に仕込んでくださっていたのですよ」
「ひっ……、ああ、あああ……!!」
ウィリアムは椅子から転げ落ちるようにして床に這いつくばった。
狂う。正気が保てない。
自分が「父親になれた」と信じ、自分の存在証明だと思っていた我が子は、自分を裏切った実兄と、自分を憎む妻との間に生まれた、背徳の結晶だった。自分は七年間、兄に妻も子も寝取られていることに気づかないまま、道化のように踊らされていたのだ。
「ラヴァル伯爵家には、すでにオリビエ様の手によって、このすべての不貞の証拠と、ロイド侯爵家からの天文学的な額の『慰謝料請求書』が届いています。これ以上の醜聞を恐れた伯爵家は、貴方の廃嫡を完全に同意しました」
パトリシアは立ち上がり、床に伏せるウィリアムを、冷え切った緑の瞳で見下ろした。
「貴方は今日、この家を去りなさい」
冷酷な、完全なる追放の宣告だった。
「ロイド侯爵家の婿養子としての身分は剥奪。衣服一枚、銅貨一枚すら、この屋敷から持ち出すことは許しません。当然、離れの親子も即座に放逐します。文字も読めないシリルと、泣くことしかできないバレリーを連れて、市井の泥の中で一生を過ごすがいいわ」
「パトリシア……! 頼む、許してくれ、僕が悪かった! 僕が愚かだったんだ……!」
ウィリアムはパトリシアの靴に縋り付こうと手を伸ばしたが、老執事と屈強な男衆によって、容赦なくその身体を取り押さえられた。
「連れて行きなさい。二度と、この神聖な敷地にあの男たちの汚れを入れないように」
「パトリシア――!!」
絶望的な叫び声を上げながら、ウィリアムは大食堂から引きずり出されていく。その先には、すでに荷物をまとめられ、恐怖にガタガタと震えながら本邸の裏口に立たされているバレリーとシリルの姿があった。彼らはこれから、自分たちが選んだ「流されるだけの怠惰」の代償を、極貧という地獄の中で支払うことになる。
静まり返った大食堂で、パトリシアはゆっくりと窓の外を見つめた。
十年間の愛は、とっくに死んでいた。けれど、自らの手で完成させた完璧な復讐劇の終幕に、彼女の胸を満たしたのは、歓喜ではなく、どこまでも冷徹で、静かな夜の闇だった。