作品タイトル不明
第19話 綻びる仮面
月日は流れ、ロイド侯爵家本邸の光は、より一層その輝きを増していた。
パトリシアが命懸けで産み落とした男児・リチャードは、今年で七歳。その聡明さと気品は、すでに次期侯爵としての風格を十分に漂わせるほどに成長していた。
「リチャード、見事な出来栄えだ。七歳にしてこれほどの帝王学の課題をこなすとは、やはり我がロイドの血筋よ」
本邸の豪奢な書斎で、滅多に笑わない前侯爵パトリシアの父が、目に入れても痛くないといった様子でリチャードの頭を撫でていた。隣では前侯爵夫人も「まあ、本当に誇らしいこと」と、孫の優秀さに目を細めている。
リチャードは七歳とは思えないほど利発で、文武両道の才を見せていた。祖父母である前侯爵夫妻からの溺愛ぶりは凄まじく、ロイド侯爵家の家臣や使用人たちも、誰もがこの若き至宝に忠誠を誓っている。
――ただ、成長するにつれて、屋敷の中にはある「奇妙な沈黙」が流れるようになっていた。
リチャードの容姿は、あまりにも美しかった。
しかしその顔立ちは、父親であるはずのウィリアムが持つ、線の細い、どこか頼りなげで甘い平民好みの顔立ちとは、似ても似つかなかった。
キリリと引き締まった、男らしく冷徹な眉。すべてを見透かすような、深く昏い黒色の瞳。それは、この屋敷に頻繁に「親族」として顔を出す、一人の男の面影を色濃く映し出していた。
「――実に見事な乗馬の筋が良さだ。リチャード様、貴方は将来、素晴らしい騎士にもなれる」
中庭の馬場で、リチャードの乗馬訓練を満足そうに見つめていたのは、ラヴァル伯爵家当主――オリビエ・ラヴァルだった。
「ありがとうございます、オリビエ伯爵」
リチャードは馬から降りると、オリビエに向かって完璧な礼をとる。
オリビエの黒い瞳が、愛おしさと、自らの血に対する狂信的な悦びで爛々と輝く。ウィリアムの目の前で、オリビエは当然のような顔をして、パトリシアと、そして「自分の息子」の側に寄り添い続けていた。
そんな光景を、本邸の隅から、血の出るほど唇を噛み締めて見つめる男がいた。
ウィリアムだ。
リチャードが生まれてからの七年間、ウィリアムの立場は文字通り「幽霊」のようだった。不貞の証拠を握られているため口出しもできず、使用人からは無視され、離れのバレリーとシリルへの援助も最低限に制限されている。
それでも、自分にはパトリシアとの間に生まれた「リチャード」がいる。その事実だけが、彼の壊れかけの自尊心と正気を繋ぎ止める最後の蜘蛛の糸だった。
だが、その蜘蛛の糸は、我が子の成長とともに、じわじわと恐怖の刃で切り刻まれていく。
(なぜだ……なぜ、あの子は俺を『父上』と呼ばない……?)
(なぜ、あの子の顔は、日に日に『兄上』に似ていくんだ……!?)
一度芽生えた疑念は、夜の暗闇のようにウィリアムの心を侵食していった。
そしてその日の夜、ついに彼の精神は限界を迎えた。
執務室で、翌日の行事の書類に目を通していたパトリシアの元へ、ウィリアムが血走った目で乱入してきた。
「パトリシア!! 説明してくれ、パトリシア!」
バン!と大きな音を立てて机に両手を突き、ウィリアムが狂ったように叫ぶ。
「なぜだ! なぜリチャードは、私にどこ一つとして似ていないんだ! 私の髪の色も、私の瞳の色も、あの甘い輪郭も、あの子は何も継いでいない! それなのに、なぜ……なぜ兄上に、オリビエ兄上に、あんなにもそっくりなんだ!!」
部屋に控えていた老執事の目が、一瞬で凍りついた。
ウィリアムの叫びは、この七年間、屋敷の誰もが気づきながらも、決して口にしてはならないと固く禁じられていた「神域のタブー」を、ついに自ら暴くものだった。
しかし、パトリシアは眉一つ動かさなかった。
彼女はゆっくりと書類から目を離し、冷え切った緑の瞳を、哀れな夫へと向けた。そこには動揺などひとかけらもない。ただ、狂犬の遠吠えを聞くような、底知れない侮蔑があるだけだった。
「何を興奮しているのですか、ウィリアム様。実に見苦しい」
「見苦しいものか! 屋敷の奴らも、みんな裏で噂している! あの子は本当に私の子供なのか!? 君は、君と兄上は――!」
「そこまでにしなさい、不届き者が」
パトリシアの、静かだが部屋の空気を一瞬で圧殺するような声が響いた。
「リチャードは、私が命を懸けて産んだ、正当なるロイド侯爵家の跡継ぎです。前侯爵夫妻も、家臣たちも、全員があの子の血統と優秀さを認めています。……貴方に似ていない? 当然でしょう。貴方の血が、我がロイドの血に対して、あまりにも『薄かった』。ただそれだけの話ですわ」
「薄かっ……た……?」
「ええ。高貴なる家門の血は、時に凡俗の血を完全に塗りつぶすものです。貴方の凡庸で貧弱な血が、リチャードに遺伝しなかったのは、ロイド家にとっても、ラヴァル家にとっても、この上ない『奇跡』。神の祝福ですわ。それ以上の何を疑う必要があるのですか?」
パトリシアの言葉は、完璧な正論の仮面を被った、最凶のナイフだった。
ウィリアムの男としての能力、血筋の卑しさを徹底的に侮辱し、「お前が不甲斐ないから似なかったのだ」と、その脳内に冷酷な事実を刷り込んでいく。
「ち、違う……そんなはずは……」
「これ以上、我が家の至宝であるリチャードの血統に、あらぬ邪推を口にするようであれば――」
パトリシアは引き出しから、あの七年前に完成させた「不貞報告書」の束を、ことりと机の上に置いた。
「即座に親族会議を招集し、貴方を一切の財産剥奪の上で放逐いたします。離れの二人も、即座に路頭に迷うことになりますわね。……それでもまだ、何か仰りたいことはあって?」
「あ……、う、あ……」
ウィリアムの顔から、一気に血の気が引いた。
逆らえない。ここでこれ以上暴れれば、自分だけでなく、自分のせいで日陰に追いやられたバレリーとシリルまで完全に破滅する。
パトリシアは、ウィリアムには見えないよう、机の下で自らの手をそっと重ねた。
リチャードの顔がオリビエに似ていくことなど、最初から分かっていた。この歪んだ復讐劇の結末がどこへ向かうかも。だが、自分を裏切ったこの哀れな男が、我が子の顔を見るたびに「実兄に全てを奪われている恐怖」に苛まれ、精神を狂わせていく姿を見るのは、何よりも極上の愉悦だった。
「……分かったなら、下がりなさい。二度と、私の前でその見苦しい声を響かせないで」
ウィリアムは幽霊のように力なく首を振り、ふらふらとした足取りで執務室を去っていった。
彼が去った後、パトリシアは窓の外の夜闇を見つめた。
仮面はすでに綻び始めている。だが、それを完全に叩き割る瞬間は、今ではない。
裏切り者の婿養子が、自らの無知と恐怖の重圧で自滅するその時まで、完璧な女侯爵の冷徹なゲームは、まだ静かに続いていくのだった。