作品タイトル不明
第17話 諦めという名の病
離れの寝室は、いつも夕暮れ時になると、本邸の影にすっぽりと飲み込まれて暗くなる。
泣き疲れて眠ってしまったシリルの小さな手を握り締めながら、バレリーはただ、ぼんやりと天井の木目を眺めていた。
『貴方たちだけが、幸せになれると思わないことね』
昼間、パトリシア様から投げつけられた冷徹な宣告が、今も耳の奥で生々しく、鋭い痛みを伴って蘇る。あの気高き女侯爵の緑の瞳には、燃えるような怒りと、それ以上に深い、泥の底を見るような蔑みがあった。
――怠惰な選択の代償。
パトリシア様はそう仰った。まるで、自分が好んでこの道を選び、略奪の果てにこの贅沢な離れに居座っているかのように。
(私は、ただ……生きていたかっただけなのに)
胸の奥で、行き場のない呟きが澱のように沈んでいく。
どうして自分は、いつもこうして誰かに激しく咎められ、あるいは憐れまれ、望まぬ場所へと流されてしまうのだろう。
思い返せば、人生の始まりから、自分の意志などというものは、どこにも存在しなかった。
貧乏なラミレス男爵家に生まれたバレリーの幼少期は、理不尽な涙と、諦めだけで満ちていた。
同世代の令嬢たちがきらびやかなドレスに身を包み、夜会やお茶会の話に花を咲かせているのを、ただ遠くから眺めることしかできなかった。
『学園に行きたい、お友達と観劇に行ってみたい。私だって、綺麗なドレスが欲しい――』
一度だけ、母親の古いスカートを握りしめて泣きながら訴えたことがあった。だが、返ってきたのは、生活苦に疲れ果てた母親の、乾いた平手打ちと「我が家にそんな余裕はない」という冷たい拒絶だけだった。
貴族という名ばかりの、冷え切ったスープとすり切れた衣服の日々。いつしかバレリーは、何も望まないことで、自分の心を守る術を覚えた。望まなければ、手に入らなくて泣くこともないのだと。
十四歳になった時、実家の借金を補填するため、ラヴァル伯爵家へ侍女として奉公に出されることが決まった。それも、バレリーの意志ではない。父親から「役立たずの娘が、ようやく役に立つ」と背中を押されただけだった。
そこで待っていたのは、病床にあった伯爵家の長兄・ヘンリーの専属侍女という役割だった。
実家の両親からは、家のために、主人の要望にはすべて応えるようにと、耳にタコができるほどきつく指示されていた。それがどのような意味を持つのか、幼いバレリーにも、すぐに理解させられることになる。
「お前は、私の言うことだけを聞いていればいい」
熱に浮かされたヘンリーの、細く冷たい指先が肌に触れた時、バレリーはただ目をつむった。
拒絶すれば、実家への仕送りが止まる。主人の命令は絶対であると、そう教え込まれていた。激しい痛みと、自尊心が削り取られていく感覚に耐えながら、彼女はただ、流されるままに夜を重ねた。自分という存在は、病に冒された主人の心を慰めるためだけの「駒」でしかなかった。
やがてヘンリーが亡くなると、今度は「兄の施しに慣れた女」として、当時まだ実家にいた三男のウィリアムの閨担当へと、自然な流れのようにスライドさせられた。
そこに、バレリーの尊厳など考慮されるはずもない。
周囲の侍女たちからは「汚らわしい泥棒猫」「長男の次は三男坊か」と陰口を叩かれ、男の使用人たちからは、まるで値踏みするような下卑た視線を向けられた。それでも、バレリーはただ頭を下げ、嵐が過ぎ去るのを待つように耐えることしかできなかった。声を上げて抗うだけの力も、知識も、彼女には最初から与えられていなかったのだから。
やがてウィリアムがロイド侯爵家へ婿養子として嫁ぎ、次男のオリビエ様が伯爵位を継承すると、用済みとなったバレリーは、今度は病弱な商家の息子へと嫁がされた。それもまた、ラヴァル家による都合のいい片付け仕事だった。
その夫も、半年ほどで呆気なく病死した。
未亡人となったバレリーは実家へと戻されたが、貧乏な男爵家に、すでに彼女の居場所など残っていなかった。厄介者扱いされた末、最後には廃嫡され、市井の薄暗い食堂で皿洗いをしながら、泥にまみれて働き始めることになった。
身を粉にして働き、その日暮らしのわずかな銅貨を数える日々。かつてドレスを望んだ令嬢の影は消え失せ、ただ生きるためだけに呼吸をする抜け殻のようになっていた。
そんな時だった。偶然、買い出しの途中で、豪華な馬車から降りてきたウィリアム様と再会したのは。
「バレリー……! こんなところで、一体どうして……!」
かつての初々しさを残したまま、立派な貴族となったウィリアム様は、再会を狂おしいほどに喜び、バレリーの窮状を知ると激しく涙を流してくれた。そして、すぐに市井の一角に小さな家を借り、生活の面倒をすべて見てくれるようになったのだ。
暗闇の中で差し伸べられた、あまりにも温かい手。
けれど、ただでさえ施しを受けられる身分ではない。バレリーには、その恩に報いるための財産も、教養もなかった。
(私には……この身体しか、差し上げられるものがないから)
ウィリアム様に求められるまま、彼女は再び、その腕の中に身を沈めた。
それが正しいことなのか、誰かを傷つけることなのか、考えることすら放棄して。ただ、明日のパンと、凍えない部屋を与えてくれる「優しさ」に、流されるままに縋り付いた。
そうして授かったのが、愛しいシリルだった。
あの市井の小さな家での暮らしは、バレリーの人生の中で、最も幸せな時間だった。
ウィリアム様が時折訪れ、シリルを抱き上げ、三人でささやかな食卓を囲む。ロイド侯爵家という巨大な存在の影で、細々とながらも、誰にも脅かされない穏やかな生活が送れる。
それだけで、人生のすべての不幸が帳消しになったような気がして、バレリーは心から安堵していたのだ。
本当は、ずっとあのままで良かった。
日陰の身のままで、市井の片隅で、静かに息を潜めて生きていきたかった。
『バレリー、シリル! 喜んでくれ、二人をロイド侯爵家に迎える手筈が整ったんだ。これからは、あんな立派な屋敷で、何不自由なく暮らせるよ!』
ある日、興奮した様子でそう告げられた時、バレリーの胸を満たしたのは、歓喜ではなく、底知れない恐怖だった。
本妻であるパトリシア様が、自分たちを許すはずがない。貴族の社会が、どれほど冷酷で、身分を重んじる場所か、身をもって知っていたからだ。
「ウィリアム様……私は、ここで十分でございます。あのような大層な場所へ行くなど、恐れ多くて……」
精一杯の言葉で拒絶しようとした。しかし、ウィリアム様は「僕が守るから大丈夫だ」「パトリシアもきっと分かってくれる」と、彼女の細い肩を抱きしめて強く言い張るばかりだった。
結局、彼女はそこでも、ウィリアム様の強い希望に逆らうことができなかった。
もしここで頑なに拒んで、彼の機嫌を損ねてしまったら、自分とシリルはまたあの薄暗い食堂の泥の中へ逆戻りしてしまうかもしれない。その恐怖が、彼女の足を鈍らせ、最終的には「はい……」と、運命を受け入れる返事をさせてしまった。
そうして流されて辿り着いたのが、このロイド侯爵家の離れだった。
用意された豪奢な部屋。美味しい食事。けれど、本邸から向けられる視線は、かつてラヴァル家で浴びたものよりも、遥かに冷たく、容赦のない刃だった。
(私は、ただ、言われた通りにしてきただけなのに……)
ヘンリー様に言われるがまま身体を開き、実家の両親に言われるがまま商家に嫁ぎ、ウィリアム様に言われるがままこの屋敷に来た。自ら誰かを傷つけようとしたことなど、一度だってない。
なのに、どうしてパトリシア様は、あんなにも恐ろしい目で自分を咎めるのだろう。
どうしてシリルは、将来、庭師の見習いとして泥にまみれなければならないのだろう。
「かあさま……」
ふと、シリルが小さな寝息を立てながら、バレリーの指をぎゅっと握り返してきた。
その温もりに、バレリーの目から再び涙が溢れ、枕を濡らしていく。
どこまでも無力で、ただ流されることしかできない影の女は、近づきつつある破滅の足音に怯えながら、今夜もただ、誰かの与えてくれる歪んだ温もりに、縋り付くことしかできなかった。