作品タイトル不明
第16話 シリルの教育、パトリシアの冷徹
深夜の夜這いの一件から、ロイド侯爵家本邸の空気は一変した。
ウィリアムの実家であるラヴァル伯爵家へ「不貞報告書」の写しが送付され、外堀は完全に埋められた。もはや自分が破滅の淵に立たされていることを理解したウィリアムは、せめてもの悪あがきとして、シリルの存在をどうにか「貴族の血を引く者」として公に認めさせようと躍起になっていた。
「頼む、パトリシア! シリルに、せめて最低限の貴族としての教育を受けさせてやってくれ! 文字の読み書きや、礼儀作法だけでもいい。ロイド家の家庭教師を、ほんの数時間だけでもあの子に割いてはもらえないだろうか!」
本邸の談話室で、ウィリアムはパトリシアの前に膝をつかんばかりの勢いで懇願していた。
パトリシアはソファーに腰掛け、温かいハーブティーにそっと口をつけていた。懐妊中の体を労るための、香りの良い特注品だ。彼女は夫の必死な形相を、まるで見慣れた風景の一部であるかのように冷ややかに見つめた。
「ウィリアム様、何度同じことを言わせるのですか。シリルは庭師の見習いとして登録されています。平民の使用人の子に、なぜ貴族の高度な教育が必要なのですか?」
「あの子には私の、ラヴァル伯爵家の血が流れているんだ! 文字も読めないまま泥にまみれて生きるなんて、あまりにも惨めじゃないか!」
「慘め、ですか」
パトリシアは静かにカップをソーサーに戻した。その僅かな磁器の音が、部屋中に冷たく響き渡る。
「では、毎日汗を流して我が家の庭園を美しく保ってくれている平民の庭師たちは、全員惨めな人生を送っているとお仰りたいのですか? 彼らは己の仕事に誇りを持っています。シリルを惨めにするのは、我が家の待遇ではなく、貴方のその歪んだ特権意識と傲慢さですわ」
「それは……!」
「文字の読み書きなら、十歳になってから庭師頭が仕事に必要な範囲で教えます。それが我が家の使用人に対する正当な扱いです。それ以上の特別扱いは、他の誠実な使用人たちへの侮辱にしかなりません」
徹底して「使用人の子」として扱い、一歩の妥協も許さないパトリシアの冷徹な正論。ウィリアムは言葉を失い、ただ拳を握りしめて震えることしかできなかった。
その日の夕方。
パトリシアは体調を整えるための軽い散歩を兼ねて、庭園へと足を向けた。侍女たちを少し離れた場所に待たせ、一人で薔薇の生垣の小道を歩いていると、前方の東屋の近くで、バレリーとシリルが小さな椅子に座っているのが見えた。
バレリーは、ウィリアムが本邸から持ち出したであろう、古い絵本をシリルに読み聞かせようとしていた。だが、貧乏男爵家の次女として生まれ、まともな教育を受けぬまま流されるように生きてきたバレリー自身、学業が得意なわけではない。たどたどしく言葉を紡ぐ母親の横で、三歳のシリルは退屈そうに地面の蟻を見つめていた。
パトリシアが近づく足音に気づき、バレリーは飛び上がるようにして立ち上がった。
「お、奥様……!」
バレリーは即座にその場に平伏した。シリルの小さな手を引いて、無理やり地面に膝をつかせる。その身体は、力を持つ本妻への恐怖でガタガタと小刻みに震えていた。
パトリシアは、平伏する親子の前で足を止めた。
じっと見下ろす緑の瞳には、母性が芽生えたからこその、複雑な感情が揺らめいていた。
(この小さな子供には、本当に罪はないのに……)
もし二ヶ月前、自分が差し伸べた「本物の支援」をこの母親が受け入れていれば、シリルは今頃、別の土地で相応の教育を受け、日陰者ではない堂々とした未来を歩み始めていたはずだった。それを、この無力な母親が「ウィリアム様の側にいたい」という目先の依存心だけで拒絶したのだ。
パトリシアはゆっくりとお腹に手を当てた。
自分のお腹の中にいる、オリビエとの背徳の結晶。自分はこれから、生涯消えない罪悪感を抱えながら、この我が子を「ロイド侯爵家の正当なる跡継ぎ」として光の当たる場所に君臨させる。
その光の裏で、このシリルは、実の父親であるウィリアムが破滅していく姿を何も知らぬまま見送り、一生を使用人として過ごすのだ。
悲しみと、それを塗りつぶすような激しい憤りが、パトリシアの胸を突き上げた。彼女の怒りは、ウィリアムだけでなく、運命の被害者のような顔をして、我が子の未来をドブに捨てた目の前の無力な女にも向けられていた。
「バレリー。顔を上げなさい」
冷たく、けれど恐ろしいほどに透き通った声が、バレリーの鼓膜を叩く。
バレリーは涙をボロボロとこぼしながら、恐る恐る顔を上げた。
「貴方は、本当に哀れで、そして罪深い人ね」
「え……あ、あの、奥様……私は、何も……」
「ええ、貴方は『何も』しない。ただ流されるままに私の夫に縋り、悲劇のヒロインのような顔をして、この子の未来を閉ざした。ウィリアム様の『守る』という中身のない安請け合いに溺れて、すべてから目を背けているわ」
パトリシアは一歩、バレリーへと歩み寄った。その圧倒的な正妻の威圧感に、バレリーは息を詰まらせる。
「貴方たちだけが、幸せになれると思わないことね」
静かな、けれど地獄の底から響くような怒りの宣告だった。
「私の尊厳を泥で汚し、我が家の調和を乱しておきながら、この離れでぬくぬくと『家族の真似事』をして、おねだりをしていれば一生を逃げ切れるとでも思っていたの? 貴方が選んだその怠惰な選択の代償は、これからすべて、貴方たち自身に支払ってもらいますわ」
「ひっ……! あ、ああ……っ!」
バレリーは恐怖のあまり、言葉にならない悲鳴を上げて地面に伏した。シリルが母親の異変を察し、大きな目で涙をためて「かあさま!かあさま!」と泣きじゃくり始める。
パトリシアは、泣き叫ぶシリルを一度だけ切なげに見つめ、それから表情を完全に消した。
「シリル。十歳になったら、仕事を始めなさい。庭師として、厳しく仕込んであげますわ。それが、我が家に不法に居座る貴方たちへ、私が与える唯一の現実です」
パトリシアは翻り、本邸へと歩き出した。
背後からは、バレリーの絶望的な泣き声と、少年の怯えた泣き声が響き続けている。
本邸の自室に戻ったパトリシアは、窓の外の夕闇を見つめながら、毛布の上から再びお腹を強く愛撫した。
自分を裏切った夫への復讐。そして、その裏切りに寄生した無力な女への処罰。すべての歯車は、もう一寸の狂いもなく噛み合い、回り始めている。
自らの心に深い悲しみと罪の傷を刻みつけたパトリシアの冷徹な包囲網は、哀れな離れの住人たちを、容赦なく絶望の檻へと閉じ込めていくのだった。