作品タイトル不明
27.伯爵夫人は未来の王太子妃と出会う
お茶会に続き、刺繍の会のセッティングも文句の付け所がなかった。
(さすがはサンセット侯爵家だわ)
まだ嫡男のパトリックは爵位を継いでいないが、次期侯爵の座は確定している。
パトリック夫人も屋敷の次期女主人として認められているのは周知の事実だった。
これだけの場をつくれるのだ。
予算にはじまり、使用人やお抱えの職人を好きに使える立場にあった。
(羨ましい限りね)
友人席の末席に腰を下ろしながら、ローレンス伯爵夫人はそんなことを思う。
伯爵家とて裕福ではあるが、侯爵家とは比べるのもバカらしい。
伯爵家の領地は山岳地帯にあり、山をいくつも有している。それでも侯爵家の財力との間には、越えられない壁があった。
主な特産品は、山で飼育している羊だ。
種類によって用途が分けられ、毛糸専用の羊もいれば、食用として子羊の段階で出荷するものもいる。
最近、力を入れているのは毛糸専用の羊だった。
羊の種類によって異なる性質の糸ができるのもそうだが、毛糸は紡ぎ方によっても表情を変えるため開発の幅が広かった。
たとえば刺繍の会のために用意した刺繍糸は、均一な太さが求められるため、紡ぎ機を使っている。
これが編み物になると、職人による手紡ぎが好まれたりする。
わざと毛羽を出したモール糸と呼ばれる意匠糸も人気だ。
羊の育成方法を変えることなく、顧客のニーズに対応しやすいのが大きな利点だった。
(寒い地域では毛糸が欠かせないもの)
洗濯など、扱いやすさの点では綿製品に軍配が上がる。
けれど保湿、保温性については負けない確信があった。
(アラカネル連合王国と繋がりを持てれば……)
アラカネル連合王国は、ハーランド王国より北部にあり、夏は避暑地として人気なほど寒冷地帯にある。
小さな島口の集まりであるため、農業は発展しておらず、畜産も大々的にはおこなわれていない。
ローレンス伯爵家は、毛糸を売り込む商機を感じていた。
領地だけで財政を完結させたい気持ちはあっても、山岳地帯ゆえに人口が限られ、内需だけで回すのはどうしても難しかった。
現在も他領へ輸出できているからこそ品位を保てている。
他国へも輸出できるに越したことはない。
だが伯爵家の領地は北部寄りにあるものの、海に面していない内陸部のため、よしみを結ぶ機会がなかった。
(パトリック夫人が、上手くクラウディア嬢を御せれば)
彼女が持つ伝手を自分も利用できるかもしれない。
前回のお茶会のあと、パトリック夫人はクラウディアを「希代の悪女」だと評していた。
(どうしても悪く表現したいのね)
胸の内では良い印象を抱いていても、口では決して認めない。
いや、現在のパトリック夫人の立場では、認めるわけにはいかないのだろう。
立場をわからせることで、クラウディアの優位に立とうしているのだから。
ローレンス伯爵夫人は、パトリック夫人と同世代の四十代。
同じ時間を生きてきて、やり方に疑問はない。
(この歳になっても学生時代と変わらないのは辟易するけど)
人が集まれば派閥が生まれ、陰口が一体感を生む。
白髪が交じるようになっても、やることは同じで成長がなかった。
自分がパトリック夫人の立場でも一緒だとわかるがゆえに、溜息をつきたくなる。
現状クラウディアは、頼れる後ろ盾がない状況だ。
婚約者が王太子であっても、父親が公爵であっても、彼らが女の園に入れない以上、現場での助けにはならない。
女性の序列一位は言わずもがな、王妃である。
前リンジー公爵夫人が生きていれば、二位を冠しただろうけれど、現在は同列二位が複数人いるといえる。
王族派では、パトリック夫人、トーマス伯爵夫人、サヴィル侯爵夫人の名前が挙がりやすい。
トーマス伯爵家は真っ向からリンジー公爵家と敵対しているのを鑑みれば、クラウディアが頼れるのは自然と王妃の代理人であるパトリック夫人になる。
サヴィル侯爵夫人も令嬢同士が友人であるため有力候補ではあるが、パトリック夫人を無視して手を組めば、王妃を蔑ろにしていると受け止められかねない。
選択肢があるようでない状況だからこそ、パトリック夫人は強気でいられた。
(お茶会で決まると思っていたけれど)
クラウディアは聡い。
腹の中では反感を抱いていても、表向きはパトリック夫人の意に沿い、王妃に追従する姿勢を見せると予想していた。
未来の嫁として、姑とは波風立てないのが一番だ。
しかし前回のお茶会では、真っ向からパトリック夫人と対立したわけではないものの、擦り寄りもしなかった。
リンジー公爵令嬢として、しっかりと自分を持って応えていた。
若くして自立している姿は立派だが、年長者――パトリック夫人から見れば可愛げなく映っただろう。
(頼もしく感じたのは、わたしだけかしら)
悲しげな表情を見せはしたが、怯むことは一切なかった。
会話のテンポを悪くしていたのは、むしろパトリック夫人のほうだ。
思い通りにことを運べず、悪態をつきたくなる気持ちもわかる。
(悪女、ね。男性の視線を一身に集めるところを見れば、そう表現したくもなるけれど)
夜会で見たクラウディアを頭に浮かべる。
ドレスのデコルテから覗く谷間に、鼻の下を伸ばさない男性はいない。
ローレンス伯爵夫人も何度、夫の脇腹を肘で小突いたものか。
まだ熟していないのに、これである。
歳を重ね、成熟していけばどうなるのか。
終わりではなく、先があることに戦く美しさだった。
人々の視線が動くのを感じ、伯爵夫人も会場の入り口を見る。
今し方、思い描いていたのとは違う姿のクラウディアがいた。
海の泡という意味を持つシーフォームグリーンに身を包み、今日は前髪だけを編み込んでいる。
刺繍を用いた青い波の髪留めに、すっきりと額を見せる様が清楚さを際立たせた。
クラウディアが現れるだけで場が華やぐ。
男性どころか女性でさえも、目を向けずにはいられない。
隣に座ろうものなら、意識するなというほうが無理だ。
「ローレンス伯爵夫人、本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたしますわ」
クラウディアの席は、パトリック夫人の友人枠と取り巻き枠の境に用意されていた。
瑞々しい肌を持つ令嬢が、どこまで席順を理解しているかはわからない。
少なくとも、友人枠の末席にいる自分の名前は知っていた。
パトリック夫人の席の両隣を占めるのは、幼い頃から交友のある気心の知れた友人たち。
一方、末席の自分は、取り巻きから一つ頭を出した程度の関係性だ。
先日のお茶会に呼ばれはするが、いつ取って代わられてもおかしくない。
(今日は、誰かが興味を持ってくれたらよしとしましょう)
刺繍の会に刺繍糸を卸した時点で、ローレンス伯爵夫人の役目は終わっている。
侯爵家で取り扱われるというのは、一級品と認められたのと同義である。
旗色を明示していない家が多く招待されていることから、刺繍糸の宣伝の場としては上々だった。
あとはパトリック夫人に同意を示しつつ、会の進行を見守るだけだ。
お茶会と同じく、クラウディアに対して何かしら圧力がかけられるだろうが。
(嘘偽りなく、刺繍がお上手なのね)
時折小言を飛ばしながらも、クラウディアの腕前に舌を巻く。
特に毛糸の特徴を活かしたステッチには拍手を送りたかった。
お堅い印象の家紋が、赤と白のバラと相まって可愛らしく仕上がっていた。
(クラウディア嬢、手ずからの刺繍であることも加味すれば、どれだけの価値になるのかしら)
そんなことを考えているときだった。
朱色の液体が宙を飛んだのは。
カップの中身を全てぶちまけられたわけではない。
紅茶をこぼした取り巻き――アンセル男爵夫人にも罪悪感があったのか、カップの四分の一ほどの量だった。
それでも刺繍を台無しにするには十分だ。
(ああ、素敵だったのに)
じわじわと紅茶が刺繍糸に染みていく。
目が離せなかった。
同時に、胸の奥が澱むのを感じる。
(結局のところ、わたしも同罪よ)
自慢の特産品を汚されたからといって傷付く資格はない。
アンセル男爵夫人にしたって、汚れ役を引き受けたのは見返りあっての行動だろう。
紅茶の染みた刺繍糸が、自分の末路を示していても。
(もう捨てるしかないわね)
毛糸は洗濯に向かない。
上手くシミ抜きすれば綺麗になる可能性はあるが、一度汚れたものを公爵令嬢が手にするはずがなかった。
(尊重されないとわかっていて、パトリック夫人についたのだから自業自得だわ)
少しでも商機を得るために、顔の広い彼女に擦り寄った。
パトリック夫人も、理解した上で受け入れたのだ。
社交界ではこれが普通。
だというのに。
じくじくと胸が痛む。
反射的にパッと顔を上げたのは、クラウディアの言葉に驚いたからだ。
「アンセル男爵夫人も紅茶を台無しにされて、さぞお心を痛めておられると存知ます」
そこでローレンス伯爵夫人も、アンセル男爵家の特産品が紅茶だったことを思い出した。
(取り巻きの情報まで頭に入っているの?)
同席するであろう貴族の情報を予め覚えておくのは、一種の礼儀のようなものだ。
けれど取り巻きに至っては、誰が招待を受けるのか判別しづらい上、パトリック夫人の中でも優先順位が低いので念頭には置かれない。
自分ですら一度は覚えたものの、今の今まで忘れていた。
アンセル男爵夫人を労う姿に、自分も慰められる。
(でもやっぱり、この場に残るのは辛いわよね)
クラウディアが侍女を呼ぶのを見て、パトリック夫人同様、帰宅を察する。
完璧に仕上げた作品を台無しにされて何も思わない人間はいない。
気丈に振る舞ってはいるものの、心はズタズタだろう。
自分は、そんな彼女に慰められたというのに。
拳を握りしめる以外、何もできないのが不甲斐なかった。
今からでも味方になってあげればいいと、良心が訴える。
それを打算的な自分が、共倒れになるだけだと、打ち消した。
やっと手に入れた友人枠の末席を手放せるのか。
パトリック夫人に目を付けられて、どうやって社交界で生きていくのか。
弱い自分に視線が下がる。
目は開いているはずなのに、何も見えない。
自責の念が渦巻く中、クラウディアの声で、また顔が上を向く。
「ヘレン、すぐにシミ抜きをお願いするわ」
会場にいる全員が、失意を胸に帰るのだと思っていた。
予想が覆され、ローレンス伯爵夫人は目を見張る。
(捨てないの?)
ウール製品を取り扱う自分ならまだしも、公爵令嬢がシミ抜きについて知識があるのも驚きだった。
「でもシミが綺麗に抜けたら、それも商品の強みになるかしら?」
「ええ、おっしゃる通り、強みになりますわ! シミ抜き後、わたしにも確認させていただけますかしら?」
咄嗟に答える。
つい声が大きくなってしまった。
商機を逃したくなかったのもあるけれど、何よりクラウディアを後押ししたかった。
(少しでも場の雰囲気を変えるきっかけになれれば!)
旗色を隠している日和見勢も、打算的な考えは一緒だ。
自分が食い付けば、後追いが必ず生まれる。
案の定、ずっと静観していた招待客たちも落ち着きをなくしていった。
(このまま流れをクラウディア嬢に)
持って行こうとした矢先、パトリック夫人に冷や水を浴びせられる。
商売について指摘されては、王族派の人間としては口を開けない。
実際は、血眼になって商機を探していても。
建前がなければ生きていけないのが貴族だった。
建前は、自尊心を守る盾であり、指標だ。
善悪を理解している証明でもある。
何かわからずに悪行を働くのは、獣と同じ。
知識があり、守るべき品位があるからこそ、建前に重きを置く。
自分のおこないは正しく、善であると。
貴族にとって、偽善こそが正道だった。
本物の善を求めて行動する者もいるが、大抵が視野の狭い迷惑者で、社交界では冷ややかな視線を向けられるのがお決まりだ。
沈黙が広がる。
場を制したパトリック夫人は得意げだった。
次期サンセット侯爵夫人の地位は伊達ではない。
だからローレンス伯爵夫人も取り入ったのだが、今では悔しさが勝る。
(どうしたらクラウディア嬢の助けになるかしら)
それだけに思考が埋め尽くされていた。
決まり悪げに招待客の視線が沈む中、ローレンス伯爵夫人は顔を上げる。今度は自分の力で。
(何でもいい、言葉をかけるの)
あなたは一人じゃないと伝えたかった。
クラウディアを見る。
瞬間、息を呑んだ。
青い瞳が冴えていた。
凜とし、余裕さえ窺わせる。
クラウディアは、一切動じていなかった。
(ああ……)
胸が震えた。
この気持ちを何と呼べばいいのか。
目の前にいる美しい人を、どう表現すればいいのか。
自分が重ねてきた月日など、塵芥のように感じる、この思いを。
「パトリック夫人のおっしゃる通り、皆様、家を守っておいでです。それは結婚なさる令嬢時代も同じでしょう。今も昔も、皆様は人脈を築くことで、家に貢献されてきたのではありませんか?」
次いで聞こえてきた声は、鈴の音のごとく会場に響き渡った。
――誰が。
一体、誰が。
彼女を御せるというのだろう。
自分の半分にも満たない歳のクラウディアに、ローレンス伯爵夫人は心の中で頭を垂れた。
(パトリック夫人も同じ気持ちでしょうに)
ちらりと視界の端で夫人の顔を窺う。
しかし立場から、素直な気持ちを伝えられず、夫人は厳しい表情を保つしかない。
(つくづく面倒なものね)
貴族とは。
長く社交界に在籍していても、溜息をつきたくなった。
同情に似た気持ちを抱きながら、ローレンス伯爵夫人は視線をクラウディアに戻す。
パトリック夫人の考えがどうであれ、クラウディアが場を掌握したのは間違いなかった。