作品タイトル不明
第17話:「保険」の小規模テスト 〜局地戦の強制終了〜
京の都から少し離れた、山城国と丹波国の国境付近。
「ええい、松村の小童め! 我が領地の水利を勝手にせき止めおって! もはや我慢ならん、戦じゃ! 兵を集めい!」
小規模な領地を持つ国人領主の 赤井(あかい) は、顔を真っ赤にして陣羽織を羽織り、軍扇を叩きつけた。
中世において、水利権や境界線を巡る小競り合いは日常茶飯事である。
本来ならば、互いに傭兵(足軽)をかき集め、村を焼き払いながら数十から数百の規模で血みどろの殺し合いが始まるはずだった。
「殿! 直ちに京の都へ使いを走らせ、土倉(高利貸し)から戦の支度金(前金)を借り入れてまいります! それと、兵糧を運ぶ 馬借(ばしゃく) の手配も!」
「うむ、急げ! 松村の陣より先に兵を集め、一気に叩き潰してくれるわ!」
赤井は、これから始まる戦の勝利を確信し、高笑いをした。
しかし。
戦の準備は、その「第一歩」で完全に頓挫することとなる。
***
「な……なんじゃと? 銭が、借りられぬ?」
その日の夕刻。
京へ向かったはずの家臣が、血の気を失った青白い顔で赤井の元へ駆け戻ってきた。
「は、はい……。京の土倉どもを何軒も回ったのですが、皆一様に『お宅の殿様には、一文もお貸しできまへん』と……」
「馬鹿な! 我らには担保にする年貢の証文があるはずじゃ! なぜ貸さぬと言うのだ!」
家臣は、震える手で懐から一枚の書状を取り出した。
「そ、それが……土倉の主が言うには、先んじて『幕府の御金庫番(室町ふぁんど)』を名乗る者から、強いいきつ(通達)があったそうで……」
赤井が書状をひったくって目を通すと、そこには流麗な文字で、そして背筋が凍るような内容が記されていた。
『幕府(富子様)の許可なき私戦を起こす者への融資は、これを一切禁ずる。背いた土倉は、幕府を敵に回したものとみなし、即座に取り潰すでおじゃる』
末尾には、日野家の見事な朱印が、赤々と、そして絶対的な権力をもって押されていた。
「な、なんじゃこりゃあ……! 幕府が、なぜ我らのような小競り合いに口を出してくるのじゃ!?」
戦の元手となる「前金」がなければ、野にいる足軽たちを雇うことはできない。
「殿! 一大事でございます!」
そこへ、別の家臣が転がり込むように駆け込んできた。
「ど、どうした! 今度は何じゃ!」
「馬借どもが……! 荷車を引く馬借どもが、『赤井の荷は運べねえだす!』と、揃いも揃って街道の休憩所へ引き上げてしまいました!」
「なんだと!? 銭なら後で弾んでやると言え!」
「それが……『日野の奥方様の言いつけに逆らったら、もう二度とあのでっけえ休憩所で旨い飯が食えなくなっちまう! あんたらの端銭より、御台所様の飯だす!』と……。我らの兵糧を運んでくれる者が、誰一人としておりませぬ!」
赤井は、頭を抱えてその場にへたり込んだ。
銭がない。
荷を運ぶ者がいない。
それでも、義理で集まってくれた少数の身内の兵たちは陣に待機しているが、彼らの腹を満たす飯すら、前線に届かないのだ。
「腹が減っただす……」
「前金も出ねえ、飯もこねえ……。こんな戦、やってられっかよ。帰るべ」
わずか三日のうちに。
赤井の陣からは、腹を空かせた兵たちが次々と逃げ出し、ついには陣屋に赤井と数人の家臣だけが取り残されるという、惨め極まりない状態となっていた。
そして、対立していたはずの松村陣営もまた、全く同じ理由(融資凍結と物流ストップ)によって自壊し、兵が一人もいなくなっていたのである。
***
数日後。
京の都、室町第。
「ふふっ、あっははははっ!」
美しい庭園を望む縁側で、次期将軍正室・日野富子は、腹を抱えて笑い転げていた。
「聞いたか、薫子! 丹波の赤井と松村の阿呆ども。戦の真似事をしようとしたらしいが、兵糧も銭も尽きて、兵が全員逃げよったそうや! 結局、互いに腹を鳴らしながら、うちの遣いに土下座して『仲直りの誓紙』を書いたんやて!」
富子の背後に控える薫子(十二歳)は、あくまで従順な小間使いのように、にっこりと微笑んだ。
「左様でおじゃりますか。富子様の御威光、まことに恐れ入りましてございます」
「ほんまに、そなたの仕掛けた『からくり』は恐ろしいわ。うちの名を使って一滴の血も流さず、ただ『銭』と『荷車』を止めただけで、武士どもの戦を終わらせてしもうたんやからな」
富子は、薫子を値踏みするように、しかし絶対的な信頼を込めた目で見つめた。
薫子(心の声)『ひゃっはー! 小規模テスト(局地戦)、大成功! これで確証が持てたわ。「経済封鎖」と「 兵站(ロジスティクス) の遮断」は、中世の戦において最強の物理兵器になる! そしてヘイトはすべて幕府(権力)へ向かい、私(山科)の存在は完全に隠蔽される!』
薫子は、茶碗をそっと置き、富子に向かって静かに告げた。
「富子様。戦というものは、気合いや怒りだけでできるものではおじゃりませぬ。莫大な銭と、途方もない量の米、そしてそれを運ぶ手足(馬借)があって、初めて成り立つ『巨大な浪費事業』でおじゃる」
「ええ。今回よう分かったわ。……そやけど薫子、これはあくまで小大名の小競り合いや。もし、あの細川勝元や山名宗全のような、何万という兵を動かせる大物たちが本気で牙を剥いた時、この仕組みは通用するんか?」
富子の鋭い問いに、薫子は揺るぎない自信に満ちた笑みを浮かべた。
「大物であればあるほど、動かすための『銭』と『飯』は天文学的に膨れ上がりまする。つまり……富子様が手綱を握る首輪も、それだけ太く、強固になるのでおじゃるよ」
薫子の視線は、来るべき「巨大な嵐(応仁の乱)」を完全に見据え、それを封じ込めるための絶対的な確信に満ちていた。
「いざとなれば、京の都の金庫をすべて空にし、物流を完全に麻痺させてご覧に入れまする。……この日の本で、富子様のお許しなく戦を起こせる者など、もはや誰一人としておりませぬ」
その言葉に、富子は満足げに目を細め、扇子をパチンと鳴らした。
二人の共犯関係は、もはや誰も手出しできないほどの強固な基盤として完成しつつあった。