作品タイトル不明
第16話:将軍・足利義政の「正しい使い方」
京の都のほぼ中央に位置する、 室町第(むろまちだい) 。
室町幕府の最高権力者が座すこの広大な御所の一角で、深く、重いため息が漏れていた。
「……はぁ。余は、なぜ将軍などに生まれてしまったのじゃ」
第八代将軍・足利義政は、美しい枯山水の庭を虚ろな目で見つめながら、手元にある見事な青磁の茶碗を撫でていた。
彼は、決して暗愚な男ではなかった。
ただ、「政治」というものが、骨の髄まで嫌いで、向いていなかったのである。
守護大名の細川勝元や山名宗全は、毎日毎日、領地がどうの、家督争いがどうのと、血生臭い訴えばかりを持ってくる。
妻の富子は富子で、「幕府の財政が傾いている、なんとかせよ」と鋭い目で詰問してくる。
(余はただ、美しい庭石を眺め、静かに茶を啜り、唐物の名品を愛でていたいだけなのじゃ。誰か、この重荷を代わってはくれぬか……)
義政が現実逃避に耽っていたその時、背後の唐紙がすっと開いた。
「上様。またそないな所で、石ころを眺めておいでやすか」
「ひっ、と、富子か……」
義政がビクッと肩を跳ねさせると、日野富子が、いつになく上機嫌な笑みを浮かべて入ってきた。
その後ろには、美しい絹の小袖を着た、まだ六、七歳ほどの小さな童女がちょこんと付き従っている。
「上様。今日は、上様にとっておきの『 客神(まろうど) 』をお連れしましたえ。山科家の姫君、薫子におじゃります」
「山科……? はて、名もなき小身の武家であったか。そのような童女が、余になんの用じゃ?」
怪訝な顔をする義政に対し、薫子は洗練された作法で、音もなく畳の上を滑るように進み、深々と平伏した。
「上様。初めて御意を得まする。山科薫子におじゃります」
顔を上げた薫子の瞳には、幼子特有の怯えなど微塵もない。
むしろ、大輪の牡丹のような華やかさと、全てを見透かすような賢しさが同居していた。
「薫子とやら。富子の肝煎りとはいえ、ここは 政(まつりごと) の場じゃぞ。子供の遊び相手になってやる暇は……」
「政の話におじゃりまする」
薫子は、義政の言葉を遮るように、静かに、しかしよく通る声で告げた。
「上様は、日々の血生臭い領地争いや、銭の勘定といった泥臭い政に、すっかりお疲れのご様子。……なれば、それら面倒な事柄はすべて、富子様と私めに『丸投げ』しておたのもうします」
「……な、なんじゃと?」
義政は目を丸くした。
武家の娘が、将軍に向かって「政を丸投げしろ」と言い放ったのだ。不敬にも程がある。
だが、隣に座る富子は止めるどころか、ふふっと扇子で口元を隠して笑っている。
「薫子。そなた、余をないがしろにする気か!」
「滅相もおじゃりませぬ」
薫子は、義政のそばに置かれていた、青磁の茶碗にそっと視線を向けた。
「上様。その茶碗、まことに見事な『ひび(貫入)』の入り具合。そしてこの庭の石の配置……計算し尽くされた『余白の美』。これほどの至高の 雅(みやび) を理解し、体現できる御方は、日の本広しといえど、上様をおいて他にはおじゃりませぬ」
「お、おおっ? そ、そなた、この茶碗と庭の良さが分かるのか!?」
義政の表情が、パッと明るくなった。
大名たちは皆「石など眺めて何になる」と馬鹿にするばかりで、彼の芸術的感性を真に理解し、褒めてくれる者などいなかったのだ。
薫子(心の声)『史実じゃ、政治を放り出して芸術に逃げたダメ将軍の代名詞だけど……逆に言えば、東山文化という日本独自の「わび・さび(スーパーブランド)」を創り上げた、世界最高峰の芸術プロデューサーなのよね! この才能を殺す手はないわ!』
「上様」
薫子は、義政の目を真っ直ぐに見つめた。
「国を統べる力は、武力や銭だけではおじゃりませぬ。いかに豊かな文化を持ち、美しい芸術を生み出すか。それこそが、異国に対して我が国が誇るべき『最高の 威信(ブランド) 』となるのでおじゃる」
薫子の言葉は、義政の心の最も柔らかい部分に、甘く、心地よく響いた。
「上様には、その『文化の総監督』という、最も尊き御役目のみに専念していただきたうおじゃります。退屈な政局は我らが引き受けますゆえ、上様はどうか、後世に永遠に残る『至高の雅』を極めておくれやす!」
「し、至高の雅……!」
義政の胸が、高鳴った。
「そやけどな、薫子」
と、富子がわざとらしく相槌を打つ。
「上様が芸術を極めるには、唐物(輸入品)を集めたり、腕のええ庭師や職人を囲ったりと、湯水のように銭がかかるんやで? 今の幕府の蔵には、そんな余裕おまへん」
「ご案ずるな」
薫子は、ニッコリと、まるで満開の桜のような笑みを浮かべた。
「上様が望まれるなら、銀の楼閣(銀閣)でも、黄金の茶室でも、お好きなだけお建てやす。そのための銭なら……私と富子様が創り上げた『室町ふぁんど』から、億万の富をご用意いたしまする!」
無尽蔵の予算。
そして、自分の趣味(芸術)こそが国家の最高の事業であるという、完全なる肯定。
義政の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おおおお……! 薫子よ、そちなら余の心、わかってくれるか……!!」
義政は、まるで長年の呪縛から解き放たれたように、薫子の小さな手を取ってむせび泣いた。
「よいぞ! 余は今日から、この国の雅を極める事のみに生きる! 勝元や宗全の暑苦しい顔など二度と見ん! 後のことは、富子と薫子、お主らにすべて任せるぞ!!」
「ははっ! ありがたき幸せにおじゃりまする!」
薫子は、義政の涙ながらの「政治放棄(委任)宣言」を、恭しく押し戴いた。
富子が、薫子に向けて小さくウインクをする。
薫子も、心の中でガッツポーズをキメた。
薫子(心の声)『ひゃっはー! チョロい!! これで将軍様の「絶対的な承認(大義名分)」を合法的にゲットよ!』
史実において、応仁の乱の一因ともなった「将軍の政治への無関心」。
薫子はそれを非難するのではなく、むしろ全肯定し、「圧倒的な予算を与えて芸術のパトロンに特化させる」ことで、義政から政治権力を完全に、かつ平和的に委譲させることに成功したのである。
武力でも暗殺でもない。
誰も傷つかず、誰もが自分の得意分野で満たされる、完璧な適材適所の采配。
こうして、室町幕府の実権は、将軍の「御墨付き」のもと、完全に日野富子と山科薫子という、二人の女性の手に委ねられたのであった。