作品タイトル不明
第33話「絶対的なまでの強者!!!」
——ぞわり、と
背骨の奥を、氷の針が一本ずつゆっくり打ち込まれていくような悪寒だった。
地下水路に漂っていた瘴気が、質を変える。
さっきまでのものが“濁った空気”程度だったのだと、否応なく理解させられるほどに、それは異質で、深く、そして古かった。
湿った石壁が、みし、と小さく軋む。天井から落ちる水滴の音さえ、遠ざかっていく。まるでこの空間そのものが、息を止めたみたいだった。
ギギギギギ――――ッ。
耳障りな音を立てながら、空間の裂け目がさらに広がっていく。
黒い。
ただ黒いだけの闇。
なのに、その奥には“何か”がいる。
そう、本能が理解してしまう。
理解した瞬間、全身の細胞が警鐘を鳴らし始めた。
逃げろ、近づくな、関われば死ぬ、と......
「……っ」
アイラが小さく息を呑み、無意識に後ずさる。
普段なら絶対に強がる彼女が、今は剣を握る指先を震わせていた。
セレフィーナも顔を強張らせながら、静かに俺の袖を掴む。
エリクだけは辛うじて平静を保っていたが、それでも剣の柄へ置かれた手には、目に見えるほど力が入っていた。
異常だった。
立っているだけで、肺が押し潰されそうになる。
だが――
俺の右手に刻まれた冥境の門印だけは、逆だった。
歓喜するように脈打っている。
ドクン。
ドクン。
心臓と重なるように、黒銀色の紋様が熱を帯びていく。まるで......
“再会”を喜ぶみたいに。
そして、そして、そして.......
闇の中から、“それ”は現れた。
足音はない。気配すら、なかった。なのに気づけば、そこに立っていた。長い黒衣が、空気のない場所で揺れている。夜をそのまま溶かして作ったような髪。
白すぎる肌、細い指先。人間に近い形をしているのに、決定的に“何か”が違う。
顔立ちは、異様なほど整っていた。
ぞっとするくらいに、美しい。
だが.......その瞳だけは――深淵だった。
底がない。
覗き込んだ瞬間、脳が本能的に理解を拒絶するような漆黒。
「……は、?」
アイラが、掠れた声を漏らす。
「なに……あれ……」
返事をできる人間はいなかった。
黒衣の男が一歩踏み出した瞬間、地下水路全体が沈み込むように震えたからだ。
石畳が軋み、壁が歪む。空間そのものが、この存在を拒絶して悲鳴を上げているみたいだった。
だが.......男はそんなこと気にも留めず、ゆっくりと俺を見た。
そして、静かに笑った。
「……見ーつけた」
低い声だった。
耳ではなく、魂へ直接響いてくるような声。
その瞬間.......俺の門印が、激しく脈動した。
ドクンッ!!
焼けるような熱が右腕を駆け上がる。
「レイン……!」
セレフィーナが、ぎゅっと俺の腕を掴んだ。
指先が震えている。
怖いのだろう。無理もない。だって、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られていた。
なのに......視線だけは逸らせなかった。
「……大丈夫だ、問題ない」
口に出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。男はそんな俺を見て、面白そうに目を細める。
「お前程度の人間が、ここまでの門を開くとは思わなかったな」
視線が、俺の右手へ落ちる。
冥境の門印。
その目はまるで、懐かしいものを見るみたいだった。
「君だね」
男が微笑む。
「新しい“門守”は」
その瞬間.......脳の奥へ、ノイズみたいな映像が流れ込んできた。
燃える世界、崩れ落ちる空、赤黒い炎。
そして――。
巨大な門の前に立つ、誰かの背中。
「っ――!」
激痛が頭を貫いた。思わず額を押さえると同時に、視界が揺れる。
「レイン!?」
セレフィーナの声が遠い。
今のは、なんだ?
記憶……?
違う。もっと古い、もっと深い.......自分のものじゃない、“誰か”の記憶。
男は、そんな俺を見て愉快そうに笑った。
「まだ思い出していないか」
「……何を、だよ」
「全部だよ」
男の声音は、あまりにも自然だった。まるで旧友へ話しかけるみたいに。
「君が何者で、何のために存在しているのか」
空気が張り詰める。
セレフィーナが一歩前へ出た。恐怖を押し殺した瞳で、男を真っ直ぐ睨む。
「あなた……何者ですか」
強い声だった。震えていない。怖いはずなのに、それでも退こうとしない。
男はゆっくり視線を向ける。
その刹那.......空気が凍った。
圧力。
視線だけで押し潰されそうになる。アイラが息を呑み、エリクが剣を抜く。
だが、セレフィーナだけは動かなかった。男が少しだけ目を細める。
「……なるほど」
ーーー興味深そうに
「君が、“鍵”か」
「っ……」
セレフィーナの肩が揺れた。
鍵?
どういう意味だ。問い返そうとした、その時だった。男が静かに語り出す。
「君たちに頼みがある」
地下水路から音が消える。
男は笑みを浮かべたまま、続けた。
「その少女を、こちらへ渡せ」
瞬間、セレフィーナの手が、俺の制服を強く掴んだ。震えていた。でも......逃げようとはしない。
だからこそ、俺は彼女を庇うように静かに前へ出た。そう、それはまるで......どこかの国の勇者の如く。
「……嫌だと言ったら?」
男が、ゆっくり首を傾げる。
「聞き返そう」
「断る、って言ったんだよ、バカ」
俺は真正面から男を見返した。右手の門印が、黒銀色の光を放つ。
「要求なら断る、そう言ってんのがわかんねえのか? そもそもな、セレフィーナは物じゃねえんだよ」
静寂........次の瞬間だった。
男が――笑い出した。
くつくつ、と。
最初は小さく。
だがそれは徐々に大きくなっていく。肩を震わせ、腹を抱えるほど、おかしそうに。
「はは……っ、はははははははッ!!」
狂ったみたいな笑い声が、地下水路全体を揺らした。壁へ亀裂が走り、水面が激しく波立つ。
アイラが顔を青ざめさせ、エリクが舌打ちした。
だが......突然男の笑いは突然、ぴたりと止まった。そしてーーー
ーーーその瞳から、一切の感情が消える。
「……反抗するのか、お前ら程度の存在が」
低い声。さっきまでとは違う。冷たく、底なしの怒気が滲んでいる。空気が、沈む。肺が押し潰されそうになる。
「これは命令だ」
怒号だった。次に俺が目を見開いた時には、地下水路全体が爆発したみたいに揺れる感覚が体全体に伝わる。
轟音と共に壁が砕け、水が爆ぜる。セレフィーナが顔を歪め、アイラが悲鳴を呑み込む。
それでも......
俺は、一歩も退かなかった。
「……命令される筋合いはない」
右手の門印が発光する。黒銀色の光が右腕を包み込み、空気が裂けた。背後へ、巨大な門が現れる。
赤黒い炎を纏う、“朱雀門”。
圧倒的熱量が地下水路を埋め尽くす。
「レイン……!」
セレフィーナの声。
だが止まれない。
目の前の存在が危険だと、本能が叫んでいた。
そして何よりも.......“大切な人”を守る使命が俺にはあるのだから。
だからーーー全力で叩く。
「――〈朱雀門・開門〉」
轟ッ!!
赤黒い業火が奔流となって解き放たれる。空間そのものを焼き裂く破壊。触れた瞬間、“存在”ごと消し飛ばす死の炎。
先程の軍勢を一瞬にして壊滅させた攻撃。
なのに――
男は、動かなかった。
ただ.......右手をゆっくりと持ち上げる。
白い指先。そして.......
親指と中指を、軽く擦り合わせた。
パチン。
小さな音。
たった、それだけ。
その瞬間........俺の背後で開いていた、朱雀門が――閉じた。
重々しい音と重なり合うように炎が、消える。空間ごと、存在そのものを“閉じられた”。
「――な……」
理解が追いつかない。今まで誰にも干渉できなかった門が、俺の力が........
たった一度、指を鳴らしただけで消された。
「う、そ……」
アイラの顔から血の気が引く。エリクでさえ絶句していた。だが.......俺だけは、その男から目を離せなかった。
知っている、この感覚を、この圧力を。
この“門を閉じる力”を.......
脳の奥で、何かが軋む。忘れていた記憶が、無理やり浮かび上がってくる。
燃える世界、崩れた門、赤黒い炎.......
そして――
その炎の前で、静かに笑っていた“こいつ”。
男が、ゆっくり口角を吊り上げた。
「ようやく思い出したか」
その言葉が俺の耳へと届いた時、背筋へ今までで最大の悪寒が走る。
俺は、こいつを知っている。知っていてはいけないはずなのに。
なのに.......
魂が、確信していた。
「ああ、そうか。お前だったのか......」
――こいつは昔、一度だけ。
俺を“殺した”存在だ。