作品タイトル不明
第124話 鮫
あの子は一体何なのよ、と、 多田乃(ただの) 理衣奈(りいな) ――リィは頬を膨らませながら帰宅していた。
結局あの後、ほかの同級生にもお願いしたけど断られ、文化祭とかいうどうでもいい仕事が残ってしまった。
無視しても良いのだけど、それはそれで内心点が悪くなるし、進路にも影響が出かねない。
……まあ、帰ってからもっかい涼風に頼んでみるか。餌はいくらでもあるんだし、とアスファルトの帰路をずかずかと不機嫌そうに歩いて行く。
リィにとって、学校とは泥沼のようなものだった。
沼には色々な生物がいる。
オタマジャクシのように素直な子もいれば、アメンボのように悠々と水上を進むエリート。他人に寄生するヒルや、自己主張ばかり激しいウシガエルのような馬鹿が住む、淀んだ沼だ。
それを、先生とかいう目の曇ったカエルが「全部同じ生物だな、異常なし」と、何の確認か分からない確認を行っている――それが、リィの認識する学校だ。
その中でリィを例えるなら、麗しい蝶だろう。
泥沼で繰り広げられるみじめな争いに加わらず、必要があれば鱗粉を巻きバカなオタマジャクシ共を誘いだす、可憐な蝶。泥のなかでもがく生物をうまく使いこなすことこそ、教室という沼を生き延びる術、勝ち組の戦い方だ。
大切なのは、ヘンなのに声をかけないこと。
沼にはたまに、ホンモノのトカゲやキリギリス、カマキリが潜んでいて……あ、こいつに手を出すと危ないなっていう人間がいる。
そういう人には、手を出さない。
その点であの後輩、涼風萌は典型的なミジンコ、被捕食者であり、適度なつまみ食いが許される相手だ。
今日は、なんか変な子に絡まれたから上手くいかなかったけど……涼風には後で連絡して、次は二人で話し合えばいい。
人間関係は、立ち回りが全て。
人を転がし、自分が被捕食者にならないようにすれば大抵の問題は解決する。
そして私は可愛い。
とびきりという程ではないけど、少なくとも上の中、可憐な羽と鱗粉があればオタマジャクシ共を欺くなんて簡単カンタン。
「あ~あぁ。失敗するなんて、らしくないなぁ。でも大丈夫。私は可愛いんだから大丈夫」
鼻歌交じりに自宅マンションに到着し、鍵を開ける。父の帰りは遅く、母は離婚したため夜遅くまでリィ一人だ。
あとは家でごろごろし、適当なダンジョン配信でも見ながら「うっわ下手くそ。死んだら?」とコメントで煽り、バカ共が炎上するさまを観察しよう――
と、家に入り、ドアを閉じようとして。
がっ、と詰まる音。
ん? あれ? 閉じない?
と、リィが振り返ると……
ドアの隙間に。人間の。
女の靴が、挟まれていて……え?
「すみません先輩。先ほどひとつ、言い忘れたことがあって。よろしいですか?」
「…………は? ……っ」
――顔をあげ、リィは息をのむ。
学校には様々な生物がいる。
オタマジャクシ。カエル。アメンボ。たまにトンボやカマキリ、蜘蛛のような例外もいるけど、その全ては彼女の想定内であり、近づかなければ何とでもなる。
……そう、思っていた。
なの、だけど。
「大した話じゃないんですけど……先程の件。というか今後も、涼風さんにちょっかいをかけないで欲しいなと思って。面倒……っていうか。あなたみたいなのに、うろちょろされてると、私が気になって鬱陶しいので」
「…………」
閉じかけたドアの隙間。
靴を挟まれた先に、ついさっき図書室で見かけただけの、名前も知らない――
ホオジロザメが。
ドアの隙間から顔を覗かせ、ぎょろりと覗き込んでいた。
どうして自分がそう表現したのか、リィ自身も分からない。
けど。昆虫の王国に過ぎない泥沼に、ガチモンの肉食獣――正体が本当にホオジロザメか、アリゲイターか、キングコブラかは分からないが、とにかく触れてはならない化物が悠々と泳いでいる、そんな錯覚を覚えて。
リィは声にならない寒気を覚え、呼吸を忘れる。
気のせい。見間違い。観察眼に優れたリィであっても、たまには見間違うことくらいあるだろう、と……ドアの隙間から暗殺者のようにうかがう女を見つめ返す。
「…………」
そもそも彼女は、ただの後輩だ。
どこにでもいる平均以下の、眼鏡をかけた、陰気で野暮ったい女。なら、私はいつも通りに対応すればいい、だけ……
「リィ先輩。良ければ私と”和解”しませんか」
「……え」
「じつは私、最近学んだことがあるんです。人と人は、話し合うことでトラブルを解決できるって」
和解、のトーンに、リィは妙なズレを覚える。
対話をしているはずなのに、話の通じない宇宙人と相まみえているような違和感。
……彼女が望んでいるのは本当に、普通の人間がいう”和解”だろうか?
唾を飲み、ええと、と戸惑いながら。
「あなた、何言ってるの? 意味ワカンナイんだけどぉ? 和解ってなに? この話さぁ、関係あるの涼風ちゃんとあたしだけで、あんたには関係ないと思うんだけど?」
「そうですね。ただ少々、目に余るかなと、思ったので」
ホオジロザメがギラリと歯を輝かせ、リィの背筋に言葉にならない寒気が、走り抜けた。