軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

217. 赤い瞳と煙草の煙

拠点に戻ると、先に帰宅していたアリアが心配そうな様子で出迎えてくれた。

「アリア、ジャスマン商会との話し合いはどうでしたか」

「そちらはつつがなく。カルナバルでの工場の建設は順調で、来月から技術指導に出るミーヤさんの住居も決まりました。カルナバルの商業ギルド、冒険者ギルドとの会合の日程もほぼ決定です。一度オーレリアとも話をしたいと言っていましたよ」

「緊張しますが、わかりました」

相変わらずアリアは商売の面で辣腕を振るってくれている。

むしろ、最近の自分はいろいろな事情で商会の仕事に関わる時間が減っているのが申し訳なくなるほどだ。

帰路で寄った店で買ったドーナツをテーブルの上に並べ、温かいお茶を淹れる。広間のテーブルを囲みながらアリアに今日の調停の話をすると、ひととおり聞いた後アリアはぐっと眉間にしわを寄せた。

「思った以上に、神殿は勝手なことを言うんですね。確かに聖女という広告塔は得難いものかもしれませんが、人には心があるというのを忘れているんじゃないでしょうか」

「あの、物知らずで申し訳ないんですが、聖女ってそんなに重要な存在なんですか」

こちらの世界で、あまり宗教というものに触れたことはなかった。

故郷の東部にも中央神殿の分院はあったけれど、病気や怪我の時に行く場所という扱いで、そもそも庶民は多少の風邪ならば薬店に売っている喉によい飴や軽い熱さましの薬などで何とかするのが一般的だ。

オーレリア自身も大きな怪我を負ったことがないということもあり、神殿で治療を受けた経験はない。信仰の勧誘や日曜ごとのミサなどといった習慣もこちらにはなく、少なくともオーレリアの周りで信仰を持っていると大っぴらに言う人は、これまでいなかった。

そうした事情もあり、信仰や信心といったものがどのように扱われるのか、また聖女という存在がそれにどう関わってくるのか、いまいちピンとこないところがある。

「聖女というのは、その神殿に認められた神様の花嫁という位置づけですね。めったに現れるものではなく、それこそ中央神殿の聖女は最後に認定されたのが五百年前とも言われています。非常に強い力を持っていて、祈りだけで氾濫したダンジョンを吹き飛ばしたという逸話もあるぐらいですよ」

「それは……ものすごいのでは」

思わずノーラに視線を向けると、彼女は粉砂糖をまぶしたドーナツを黙々と食べていたところだった。

「私にはそこまでの力は無い。どれだけ頑張っても、王都を水浸しにできるぐらい」

「それはそれで、すごいですね……」

初夏の王都は何もしなくても雨ばかりが降っているけれど、国内ではなかなか雨が降らず渇水にあえいでいる地方もあるという。

そうした土地にとっては、ノーラはそれこそ神の救いなのではないだろうか。

「神殿は強く乞われて村や町に雨を降らしに行くこともある。そうして神様の威光を示すことでお布施をもらったり、祈りや供物を捧げられたりすることで、神様の力も強くなる」

「聖女でなくとも、神官数人がかりの儀式などで雨乞いをすることはよくありますよ。それ以外にも枯れた土地を豊かにする地属性の神殿や、豊穣の祈祷を行う風属性の神殿など、色々ですね。身近なところでは、家を建てる前に地属性の神殿に、長く平和に暮らしていけるようにと祈祷を頼みますし」

いわゆる地鎮祭のようなことを行うらしい。

オーレリアが思っているよりも、神殿は人々の暮らしに密接に関わっているということなのだろう。

「ノーラさんのように、若くて綺麗な女性が聖女と名乗り、一人で天に手をかざして雨が降れば、それは非常にインパクトがありますよね。特に水に困っている人たちはフルウィウス神の強い加護を感じて懸命に祈ったり、その後も継続的に喜捨を行ったりするでしょうし、そうして向けられる信心が強ければ強いほど神様の力も強くなるので、認定された聖女がいるのといないのとでは、神殿の運営も大分違ってくるんだと思います」

アリアの説明は簡潔で分かりやすいものだった。

数人の神官が儀式をして雨を呼ぶのもそれらしく見えるだろうけれど、白銀の髪と瞳を持つノーラが真っ白な衣装に身を包んで、こともなげに雨を降らせて見せれば、見た目の印象はかなり強烈なものになるはずだ。

神殿や神様だけでなく、ノーラ自身も信仰の対象になるのかもしれない。

「何だかアイドルみたいですね」

「アイドル?」

「あ、ええと、信仰を象徴する偶像というか」

「ああ、その理解で間違いないと思います」

アリアはチョコレートクリームが挟まったドーナツを手でひと口サイズにちぎり、口に入れてしっかりと咀嚼し、紅茶を口にする。

「普段は神殿の奥で大切にされている人が、困っている自分たちのために足を運んでくれたという、その事実に強い希求力があるでしょうし、聖女という特別な呼び名がついているのも、とても分かりやすいのだと思います」

「たしかにわかりやすいだろうけど、そんなんで一度放り出した子を連れ戻そうなんて、ちょっと都合が良すぎるんじゃないかね」

今日は護衛としてアリアに同行していたジーナが、呆れたように言った。

「でも確かに神力が漏れるのは困るね。有効な対策は今のところ、ダンジョンにこもる程度なんだろ」

「魔力なら制御の甘い子供用に封印の腕輪などを神殿に依頼することもできますが、神力はどうなんでしょうね。違う神の力ということもありますし、神殿間で何らかの兼ね合いが存在する可能性もあります」

「ああ、同じ神様でも、管轄が違うとかいう可能性があるのか。なんか面倒だねえ」

「今すぐどうこうというわけでもありませんし、とりあえずダンジョンに滞在できる用意をしておきましょうか」

「アリアさん、すまない。恩に着るよ」

それまで黙っていたロゼッタが膝に両手を置いて深く頭を下げる。

「この恩義は必ず返す」

「お二人はオーレリアの友人ですし、ロゼッタさんはナプキンの生みの親の一人でもありますから、できることはさせてください」

重々しいロゼッタの言葉に対して、アリアは軽やかな口調で応じた。

「それに私、自由に生きるのを邪魔しようとする人って大嫌いなんです。だからこれは多少の私怨も混じっているんですよ」

アリアはおどけて言うと、口元に笑みを浮かべたままオーレリアに視線を向けた。

「それに、案外なるようになるんじゃないかなんて思っているんです。私もだいぶ楽観的になりましたね」

ね、オーレリアと言われた言葉とその視線の意味はよく分からなかったけれど、アリアの言葉には同意だったので、曖昧に頷くことになった。

* * *

その夜、夕飯を軽く済ませて寝室に入り、オーレリアはしばらくサイドボードの引き出しに丁寧にしまった中から母の残した日記を取り出して眺めていた。

読んでいるというよりも懐かしい文字を視線でなぞっていると、気持ちが落ち着いてくる。書かれている内容は他愛もない日常がほとんどで、けれどそのささやかな内容が、母がかつて東部で父とオーレリアと幸福に暮らしていたことを大切に書き止めようとしてくれていたのだと伝わってくる。

引き出しの中にはドミニクが譲ってくれた、フスクス家の家財が収められている。

母の使っていた手鏡やアクセサリー、父のパイプや動いていない懐中時計、食器類はそのうち実際に使おうと思っているが、今は飾りとして蝋燭立てと共にサイドボードの上に立ててある。

ゆっくりと文字をなぞりながら気持ちが落ち着いたところで、そろそろ寝ようかと思ったところで窓の外で微かな物音が響いた。

部屋の窓は中庭に面していて、オーレリアは本をそっと枕元に置くとベッドから立ち上がり、窓辺に寄る。

そこには小さなオレンジ色の光がポツンと灯っていた。

そっとしておいた方が良いかもしれないと思ったけれど、なんだかソワソワしてしまって、結局寝巻きの上から薄い上着を羽織り、階下に降りて広間の奥にある中庭に続くドアをそっと開ける。

「あれ、オーレリア、まだ起きてたのかい」

「はい。あの、少し風に当たろうかなと。ロゼッタさんはまだ寝ないんですか」

「ああ、なんだか目が冴えてしまってね」

ロゼッタの手には紙巻のタバコが挟まれている。彼女がタバコを吸っているのを見るのはこれが初めてだけれど、かすかなニコチンの匂いが煙に乗ってゆっくりと空に立ち上っていた。

「ノーラが苦手だからずっとやめてたんだけど、なんだか今日は吸いたい気分になっちまってね」

ロゼッタにしても今は心配事の多い日々だろう。そうなんですねと頷いて、オーレリアも空を見上げる。

魔力結晶の街灯があるとは言え大都市でも、前世のようなネオンが輝く夜とは違い、王都の空には星が瞬いている。

「オーレリア、もしノーラの力が安定しなくて神殿も後に引かなければ、あたしたちは王都から出て遠くに行くよ」

「えっ」

「今の状況もあんたの親切に甘えている形だからね。これ以上世話になるのはもらいすぎだ」

「私たちは全然気にしていませんよ。ロゼッタさんにはたくさんお世話になりましたし、これからだって」

「双星はそれなりに腕の立つ冒険者パーティという自負はあるけど、代わりのきかないパーティじゃないよ。アウレル商会には黄金の麦穂がついてるし、十四階層に潜れる熟練のパーティもそれなりに居る。あんたはいい子だからきっといい縁に恵まれていくよ」

「ロゼッタさん」

「でもあの子には私しかいないし、私にもあの子しかいない。誰も傷つけないように人里離れたところで暮らしても良いし、それこそ南部にある水不足の土地に移動してもいい。……そこなら多少水を出し過ぎても、むしろありがたがられるんじゃないかね?」

ロゼッタはおどけて笑いながら言うけれど、オーレリアは口を開きかけて一度閉じ、ぐっと拳を握る。

「ロゼッタさん、言ってたじゃないですか。エディアカランの制覇をするって。そのために、ずっと頑張ってきたって」

「まあ、夢だったけど、夢は叶わないこともあるさ」

「自分のためにロゼッタさんが夢を諦めたら、ノーラさんはきっと、後悔します。その、私は二人にとっては部外者で、偉そうなことは言えませんが……それでも、それは、最後の最後の手段でなければ、いけないと思います」

人の事情に踏み込むのは怖い。

それは、親しい人にも言えないことだらけの自分に踏み込まれることが恐ろしいと思っているからだ。

ロゼッタは大事な友人だけれど、彼女やノーラの生き方に口を出す筋合いがあるとは思えない。

だからこれは、自分のエゴでしかないと分かっているけれど。

「私は、ノーラさんにも、ロゼッタさんにも、後悔してほしくないです」

一人ではないのだと、オーレリアの大切な人たちは何度も信じさせてくれた。

「選べる道が今は見えなくても、明日は見えるかもしれない。だから、一人で決めて、出ていくようなことはしないでほしいです」

ロゼッタは、しばらく返事をしなかった。

白々しいくらい真っ白な煙が、細い月の浮く夜の空に昇っていくのを、その赤い瞳は静かに追っていた。