作品タイトル不明
第52話 台帳の記憶
ロドリクが聞いていいかと言った。アシュリーは頷いた。
三人は執務室の机を囲むような形になった。ヴェルナーは立ったままだった。アシュリーは椅子に座った。ロドリクが正面に座った。窓の外は曇っていた。光は均一だった。影がなかった。アシュリーは台帳を膝の上に置いていた。開いてはいなかった。ただ手の中にあった。机の上には文書がいくつか広げられていた。カリアスからの非公式な申し入れの写しらしい紙も見えた。アシュリーはそれを見て、自分が持っている情報の輪郭を少し確かめた。
「カリアスは、長子優先ではなく功績優先で席次を決める慣習があります」
アシュリーは言った。
「年齢や血筋の高さより、国や主君への功績が席次の基準になる。それが彼らの礼法の根幹です。宮廷のどの場においても、その原則は変わらない。儀礼の席でも同じです。誰が上座に座るかは、誰が最も功績を持つかで決まります」
ヴェルナーが眉を動かした。ロドリクは表情を変えなかった。しかし聞いていた。姿勢が少し前のめりになった。聞く体勢だった。
「ヴァルディアが年齢と身分で席次を組むと、カリアス側は『侮辱』と取ります」
アシュリーは続けた。
「ヴァルディアの慣習では身分の高い者を上位に置きます。しかしカリアスの慣習では功績を積んだ者が上位です。同じ基準で席を決めてもらえないことを、カリアスは主権への軽視として解釈します。自分たちの礼法を尊重されなかったと受け取る。今回の使節の不満も、おそらくそこから来ていると思います」
ロドリクとヴェルナーが、ほぼ同時に黙った。
ヴェルナーのほうが先に声を出した。
「知らなかった……」
独り言だった。しかし音になっていた。ロドリクも何も言わなかった。知らなかった、という顔をしていた。驚いているのではなかった。自分たちが知らなかったことを確認している顔だった。どこかで取りこぼしていたものがある。その確認だった。机の上には席次の草案らしい紙が広げられていた。アシュリーはそれをちらりと見た。使節の名前が縦に並んでいた。並び方が分かった。ヴァルディアの慣習で整理されていた。カリアスの使節の名前は、年齢と官位で序列されていた。功績の順番ではなかった。それが問題の原因だった。紙の上を見るだけで分かった。
「台帳には各国の儀礼慣習の補記がありました」
アシュリーは言った。
「四年間、儀礼の案件を扱うたびに確認していたので、頭に入っています。カリアスが関わる案件は過去にも何度かあって、そのたびにこの慣習の注記を読み直していました。案件を通じて少しずつ理解が深まっていったのだと思います」
ロドリクが口を開いた。
「それは……あなたが独自に記録していたのですか」
静かな問い方だった。責めてもいなかった。驚いてもいなかった。ただ確かめたかった、という問い方だった。アシュリーはその問いが何を確かめようとしているか少し考えた。記録の出所を問うている。誰が作ったかを聞いている。
「最初に引き継いだ台帳に少し書いてあったのを、私が毎年加筆していきました」
アシュリーは答えた。
「各国ごとに分けた補記の頁があって。最初の担当者が始めたものでした。私が引き継いだときには三、四ヶ国分しかなかったのですが、四年の間に案件を扱うたびに書き足していきました。カリアスの項も最初からあったわけではなくて、一度目に案件を担当したときに、調べて書き加えました。その後も、何か新しいことが分かるたびに更新していました」
言い終えてから、アシュリーは少し迷った。
「……自己判断で書き足していたので、正式な記録かどうかは分かりません。私の覚え書きに近い性質のものです。公式の文書として扱えるかどうかは、確認が必要だと思います」
付け加えた。
ロドリクが「……」と黙った。
長い沈黙ではなかった。しかし何かを考えているときの静かさだった。アシュリーはその沈黙を待った。ヴェルナーも待っていた。執務室に午後の光が差していた。均一な曇りの光だった。窓の外で鳥が一度鳴いた。それだけだった。
ロドリクがアシュリーを見た。
「それは、正式な記録より実用的かもしれません」
言い方が静かだった。評価でも皮肉でもなかった。ただそう思った、という言い方だった。
アシュリーは何も言わなかった。何を言えばいいのか分からなかった。補記を書き続けたのは、ただ次に同じ案件が来たとき困らないためだった。業務の効率のためだった。台帳を引き継いだとき、前任者の補記が役に立った。だから自分も書き足した。それだけのことだった。それが「実用的」と言われる種類のものだとは、思っていなかった。
「カリアス以外の国の記録もありますか」
ヴェルナーが聞いた。
「あります。合同儀礼に参加する国のうち、慣習が特殊な国については複数の補記があります。関わった案件の数だけ、情報が増えていったので」
「今回の合同儀礼に参加する国の中に、他にも注意が必要な国はありますか」
アシュリーは少し考えた。参加国の名前を思い浮かべた。補記の頁を順に思い出した。頁の順番が頭の中に並んだ。カリアスの次には何が書いてあったか。その次は。年に一度、確認し直していたことが今になって役に立つとは思っていなかった。
「……二、三ヶ国あります。今回の合同儀礼に参加するならアンタリア連合とセレスタル公国が特に注意が必要です。アンタリアは忌避する色の慣習が厳しく、セレスタルは挨拶の順序に独自の礼法があります」
ヴェルナーとロドリクが顔を見合わせた。
アシュリーはその顔を見て、自分が言ったことの重さを少し測り直した。二人が知らなかったことを、自分は知っていた。四年間、机の上でひとりで続けていたことが、今この場所で形を変えていた。
ロドリクがアシュリーを見た。
「もう少し聞かせてもらえますか」と言った。
アシュリーが知っている情報は、他にもあった。