軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

17 泉の幻③

(あれから、眠れなかったなあ)

ベッドに戻っても、あの声が耳の奥にこびりついたまま離れなかった。

外が明るい。ようやくまどろみかけたと思ったら、そのまま起床の時間になってしまったみたい。

寝室のカーテンがロザリナに開けられ、柔らかな朝の光が差し込む。

「リリーベル殿下、おはようございます。まあ、どうされましたか?」

ロザリナが声を上げ、ベルネもすぐ後ろから顔を覗かせて目を見開いた。

「リリーベル殿下、お顔が青ざめてますよ!? お身体の調子が悪いのではないですか!?」

「あ、あの……昨日あまり眠れなくて」

鏡の中、わたしの目元はほんの少し赤く、クマが浮かんでいた。

「……では、すぐに温かい飲み物をお持ちします。生姜と蜂蜜を少し加えたものを」

「ありがとう、ロザリナ」

ベルネは眉を寄せながら、わたしの外套をそっと肩に掛けてくれる。

「本日はご無理をなさらず、お休みになられてはどうですか?」

「大丈夫よ。今日は授業の日だもの。先生の講義が受けられるのはとてもありがたいことだから、ちゃんと聞きたいわ」

今日の授業は地理と地学だ。王国全土の地形や気候、交易路や主要都市の特徴を学ぶためのもの。人々の暮らしを理解し、いずれ政治や外交に活かすための大切な学問。

不安を見せたら、きっと余計に心配をかけてしまう。そう思ったわたしは、胸の奥はどこか落ち着かないけれど、それでも笑顔をつくった。

「リリーベル殿下。お待たせいたしました」

「ありがとう!」

ロザリナがすぐに用意してくれた紅茶は、香りだけでも心をほぐしてくれる。

ふうっと息をついて、一口飲む。喉を通る温度が、かすかな安心を運んでくれた。

「ではリリーベル殿下。本日のお支度は念入りにさせていただきますね!」

ベルネがメラメラと燃えている。どうしたのかと思っていたら、ロザリナも大きくうなずいていた。

「そんなお顔で外を歩かれたら、ルーク殿下がたが飛んできてしまいますわ」

「ですよね、ロザリナさん! このクマをしっっっっかり隠さないと!」

「ええ。お顔の色が明るく見えるように、今日はこの紅色のドレスにしましょう」

「髪の毛もハーフアップできゅっと上げて視線を逸らしますね!」

ベルネとロザリナは気合いを入れて、今日の支度の準備に取りかかってくれる。

身近な所に理解者がいてくれることがとてもうれしくて、なんだかまた泣きそうになってしまった。

(なんだか涙腺がゆるゆるだ。気をつけないと)

着替えを整え、髪を結い、いつもどおりの姿になったところでわたしは離宮を出た。

今日の授業は王国東部の地勢や風土についてだった。

講師であるハーゼン先生が、少し古びた木製の指し棒で地図を示しながら語る。

白髪をひとつに結い、眼鏡を何度も押し上げるその姿は、まさに知識の泉そのものだ。

「東部へは王都から東へ伸びる大街道をずずいと進む。馬車で行けば……そうだのう、休憩を挟んで十日はかかる距離でございますな」

先生は地図上の位置をとんとんと叩きながら続ける。

「この湿地帯一帯がポルシェ子爵家の領地でございます。水源が多く、水を好む穀物や薬草の栽培に向いておりますな」

「そうなのですね」

わたしは教本を開き、丁寧に筆を走らせる。

(アデリナのお母様は、たしか……この領地に戻られたのよね)

そんなことを考えていると、次に先生は地図の外側へ伸びる線を示した。

「ここからさらに東へ進むと、エーデルラントとの国境があります」

「国境……」

「ええ。交易が盛んで、行き来も多い。実際、この辺りの宿場町には、隣国からの滞在者が年々増えております。いくら友好を示しているとはいえ、注意も必要だと思っておりますがのう」

ハーゼン先生は少し困ったような顔をしながら、そう言葉を締めくくる。

わたしが書き留めながらうなずいたその瞬間、ゴロゴロと鈍い音が空から響き渡った。

教室の窓がわずかに揺れる。外はいつのまにか雲が重く垂れ込め、薄暗くなっている。

「ほう……ひどい雨が降りそうですのぉ。こんな日は腰が痛くなる」

ハーゼン先生が空を仰ぎ、肩をすくめる。

「先生、腰痛にはラベンサ草のお茶が良いと聞きました。身体を温めて血流をよくするそうです。もしよければ、後ほどお持ちしますね」

「ほっほう? それはありがたい。リリーベル王女殿下は、お優しいですな」

冗談めかした褒め言葉に、わたしは少し照れて笑った。

けれどその時、また低く重い雷鳴が教室に響きわたる。

(……どうか、ひどくなりませんように)

祈るように両手をぎゅっと握りしめた。

胸の奥に、雨雲と同じ色の不安がじわりと広がっていくのを感じながら。

授業が終わる頃には、空はすっかり灰色に沈み込み、今にも泣き出しそうな色をしていた。部屋を出た途端、ポツポツとした雨音が広がり始める。

(わっ……降ってきちゃった)

侍従たちや来訪者が慌てて荷物を抱え、軒下へ駆け込んでいく。

わたしも急いで離宮へ戻ろうと、裾を握って小走りになったその時——

「リリー!」

雨に混じるようにして、低い声が響いた。

「ローラント兄様」

振り返ると、外套を肩にかけた兄様が半ば駆けるようにこちらへやってくる。

濡れた前髪を乱暴に払って、真っ直ぐわたしを見つめた。

「大丈夫か!? 急に降り出したから……って、おい、顔色が悪いじゃないか」

「わ、わたしは……大丈夫です。ただ、少し寝不足なだけです」

その瞬間、わたしの頭の中で昨夜の声が鳴り響いた。

『母上が死んだのは、おまえがもっと早く薬を作れなかったせいだ』

ローラント兄様のものではないはずなのに、まるで今言われたかのような気持ちになる。

(違う……兄様がそんなふうに言うはずない)

頭を振って追い払おうとした。

だけど、ローラント兄様は、わたしのこわばりを見逃さなかったらしい。眉を寄せ、そっと肩に手を置く。

「無理をしている顔だ。離宮まで送る」

「で、でも——」

「遠慮するな。ほら、これからまだ降るぞ」

お兄様に倣って空を見上げたとき。

ぽつ、ぽつ、と落ちていた雨粒が、急にリズムを変えた。

次の瞬間には、空がまるで壊れたように水を降らせはじめる。

「風邪を引かないようにしないとな」

兄様の外套がふわりとわたしにかけられた。温かいはずなのに、胸の奥はざわつく。

「でも、そうしたら兄様が濡れてしまいます」

「何のための筋肉だと思っているんだ?」

そのときだった。

「急げ! 執務室に報告を——!」

ばたばたと足音を響かせながら、文官が二人、雨を切って駆けてくる。

すれ違う一瞬、彼らの会話が風に乗って耳に刺さった。

「おい、本当か、東部の話は」

「ああ……出たらしい。悪魔の感染症が!」

バシャバシャと雨を蹴って走り去る足音だけが残る。

——頭を棒で殴られたようだった。

景色が遠のき、雨音だけが耳を満たしていった。