作品タイトル不明
第九話 シガテラ毒
鮮やかな緑の夏草が風に揺られて――いない。
ジメジメとまとわりつく湿気を払ってくれる風の到来を待ちつつ、サニアは机の上に突っ伏していた。
暑いという言葉さえ出てこないほど、とにかく暑い。
日暮れだというのに緩まる事のない暑さに、サニアは片手で襟を引っ張り、空いた片手で風を送る。
――ソラ様がいないなら水浴びしても大丈夫かな。
ソラは王太子を送るために外出中で、何事もなければ明日の朝に帰ってくるだろう。
もっとも、現在のクロスポートは獣人の食中毒患者が相次いで発生している。
獣人大好きなソラの事、事態を知れば飛んで帰ってくるだろうことは想像に難くない。
今のうちに汗を流してしまうのもいいだろう。
不用意に浴場を使うと、ソラが事故や不注意を装って乱入しようとするため普段は避けていたが、不在なら覗かれる心配もない。
――よし、入ろう。頭から水を被ろう。
心に決めて、サニアは魔法研究室を出た。
大樹館をぐるりと回り込み、端にある浴場へと向かう。
これほど大きな建物だというのに浴場が一つだけなのは、没収されたハーフミラーの設置場所の関係だろう。
官吏達を罠にかける際に使われた秘密通路は、今やサロンとローゼの秘密基地となっている。度々、お菓子を運び込まされるコルの姿を見かけていた。
その時、獣人の優れた聴覚を持つサニアの耳に浴場から響く楽しげな声が聞こえてきた。
廊下を曲がってみると、浴場の前でゼズが項垂れている。
「どうしたの?」
「サニアか。聞いてくれよ。ローゼがな、水浴びするからお父さんは入っちゃダメって、そう言うんだ。男親がハブられるのはあっという間なんだな……」
娘に浴場から追い出されて落ち込んでいるらしい。
――中でサロンとローゼが遊んでるんだ……。
サニアはゼズとは別の意味で落ち込んだ。
サロンとローゼは妙にサニアになついている。
ローゼの母親であるラゼットやサロンにトラウマを植え付けたリュリュと違い、近所のお姉さん的な立場になっているのだ。
この暑い中、子供達と遊ぶほどの体力がサニアにはない。水浴びは控えた方がよさそうだ。
サニアは暑さにうんざりしながら、研究室に戻った。
再び突っ伏した机が熱い。
団扇を使おうかとも考えたが、どうせ湿気を多分に含んだ重くて温い風しか来ない。
「せめて湿気さえなくなれば……」
すべて湿気が悪いのだ。
こうジメジメと暑くては、機密書類が収められている書庫はどうなっているのか。
「――そうだ、書庫!」
サニアは突っ伏していた体を跳ね起こす。
多量の湿気、高い気温、閉め切られて淀んだ空気、機密書庫はどうなっているのか。
これだけ条件がそろっているのだ。かびが発生していない方がおかしい。
かびが発生していたらどうなるか。簡単だ。
各自で書類の再作成である。
つまり、すでに傾きかけたというのに何が楽しいのか分からない陽気なお天道様に熱い眼差しを注がれる中で残業が確定するのだ。
堪ったものではない。
サニアは大慌てで部屋を飛び出し、機密書庫に走る。
走った影響で急激に体温が上がっていくが、仕方のない事だ。
すぐにサニアは機密書庫へたどり着き、カギを開いて中に入る。
「……あれ?」
覚悟したような湿気の出迎えはなかった。
サニアは一度、機密書庫へと入り、廊下との湿度の違いを感じ取る。
機密書庫内は明らかに湿度が低い。
原因は分からないが、原因を作っただろう犯人には心当たりがある。
犯人の足音を聞きつけて、サニアは機密書庫の戸締りをして玄関に向かった。
「サニアが出迎えてくれるなんて今日は実にいい日だ」
暑さに滅入っているサニアの気も知らないで、仮面をつけた青年伯爵は嬉しそうに両腕を広げた。
さぁ、抱き着いておいでと言わんばかりに大きく広げられたソラの腕には目も向けず、サニアは機密書庫のある方角を指さす。
「なんで書庫に湿気が全然こもってないの?」
「なんでって、湿気取りを大量に置いてるからだ。サニアも一緒に作ったろ」
不思議そうに首を傾げて、ソラがサニアの質問に答える。
――私も一緒に作った?
サニアは熱気にゆだる頭を捻りながら、記憶を探る。だが、心当たりはない。
しかし、ソラの隣にいたリュリュは思い当たる事があるのか、ラゼットから渡されたタオルで汗を拭きつつソラを見る。
「湿度を五十パーセントくらいに抑えてるんだっけ?」
「カビが生えると一大事だからな。機密書類を頻繁に外へ出して日干しにするわけにもいかない」
ソラは機密書類が収められている機密書庫ではなく、通常の業務で使用する各種資料が収蔵されている書庫へと歩き出す。
サニアが隣に並ぶと、ソラは塩の改良を覚えているかと聞いてきた。
「遠心分離って奴をした塩だよね」
「そうだ。その遠心分離で得られる苦汁は潮解する。つまり、空気中の水分を吸って溶けだすんだ。裏を返せば、空気中の水分は苦汁に吸収されて減少する」
ソラの説明を聞いて、サニアは風呂場で聞いたリュリュの言葉を思い出した。
サニアが納得した時、ちょうど書庫の前に辿り着いた。
「塩から分離した苦汁を乾燥させれば、湿気取りに使えるんだよ。頻繁に交換する必要があるけどな」
書庫の扉を開き、ソラは中に入る。
「ほら、部屋の隅に木箱があるだろ。上の部分が網になってるやつだ」
ソラが指差した先には膝丈ほどの大きさの木箱が置いてあった。
改めて部屋を見回すと、書棚の空隙や上など、あちこちに置かれている。
これが原因かと感心するサニアをよそに書棚を眺めていたソラは、各種魚の漁獲量を記した書類を引っ張り出す。
「サニア、食中毒が発生したと聞いて帰ってきたんだが、状況はどうなってる?」
ソラに声を掛けられたサニアは、すぐに仕事用の頭に切り替えて状況を思い出す。
「原因は不明だけど、クロスポート内で獣人の患者が何人か発生してるよ。直前に食べた物はばらばらで、症状は吐き気とめまい、それから手足の痺れも確認されてる。後、良く分からないんだけど、熱い物に触ると冷たい物に触ったように錯覚するみたい」
「女衒からの報告にあった通りか」
ソラは資料をめくりながら、舌打ちする。
サニアは首を傾げた。
女衒から食中毒患者の症状を聞いたうえで最初に領内の魚の漁獲量を調べているという事は、食中毒の原因が魚にある、とソラが考えていると思ったのだ。
サニアの予想は当たっていたらしく、ソラはリュリュとサニアに指示して漁獲量の資料を書庫から運び出し、ソラの執務室に向かう。
「食中毒の原因が分かったの?」
「患者が何を食べたのかはわからない。だが、温度感覚の異常、ドライアイスセンセーションはシガテラ毒の特徴だ」
「シガテラ毒?」
聞き覚えのない毒の名前に、サニアはリュリュに視線を移す。
どうやらリュリュも知らない毒のようで、瞳を輝かせながらソラを見ていた。
「シガテラ毒はフグ毒と同じように微生物が作る毒素が食物連鎖を通じて魚や貝の体内に蓄積され、その魚や貝を食べた者が起こす食中毒だ。致死率はかなり低いが、原因食品を食べた後、発症するまでの時間の個人差が大きい。一年後に発症した事例さえあるからな」
面倒な物を持ち込みやがって、とソラはまた舌打ちする。
ソラの言い方に引っかかって、サニアは眉を寄せる。
「誰かが持ち込んだの?」
サニアが問うと、ソラは頷いた。
「シガテラ毒を作る微生物はサンゴが生息するような暖かい海に生息している。この辺りだと海水温が低いから、生息していないはずだ」
確かにおかしい、とサニアも思う。
ソラの到着まで原因を特定できなかったのは、ソラ伯爵領内でシガテラ毒を知る者がいなかったことに起因する。温度感覚の異常と言う特徴的な症状であるにもかかわらず特定できなかったのは、症例がなかったからだ。
しかし、生物の分布はそうそう変わるものではない。
ソラが持つ漁獲量の資料を見てもそれは明らかだ。
「暖かい海から迷い込んできた魚を食べちゃった、とか。個人で釣ったりしたら資料にも乗らないよ」
「俺も最初はそう考えたさ。だが、シガテラ毒は人でも発症する。獣人だけが相次いで発症している今の状況は不自然だ」
「それって、誰かが獣人にだけシガテラ毒を蓄積した魚を食べさせてるって事になるけど、そんな事できるの?」
生体濃縮による食中毒は、原因食品の個体差が激しいのが特徴だ。
同じ種類の魚であっても毒を持っている個体と持っていない個体がおり、食べてみるまで分からない。
誰かの食べかけを渡されて、ほいほいと口に運ぶ者は少ないだろう。
当然ともいえるサニアの疑問に、ソラは頷いた。
「頭を落とした開きの干物にすればいい。シガテラ毒は熱にも安定で加熱しても無毒化できないからな。食べさせる時は焼いて食わせる。毒の有無は事前に頭の部分を食べれば判別できる」
「犯人がわざわざ頭を食べる事になるけど」
「そうだな。犯人か、もしくは犯人の所属する一味が、な」
ソラの返答にぞっとして、サニアは廊下の窓越しにクロスポートを見る。
わざわざ毒の有無を判別したうえで獣人だけに毒を食べさせる計画性、もしソラの予想が事実なら、間違いなくテロ行為である。
事前に流れた噂を加味しても、ソラの予想が当たっている可能性は高い。
「何としてでも、犯人を見つけ出して、干物になるまで重労働させ――」
ソラが抱負を語ろうとした時、遮るように玄関扉が開かれ、やかましい音を立てた。
驚いて目を向ければ、血相を変えたコルがいた。背中には具合の悪そうな若い女を乗せている。
「ソラ様! ちょうどよかった。食中毒事件が起こっていて――」
「落ち着け。食中毒事件の話は聞いた。後ろの女性は誰だ?」
ソラに窘められたコルは、心配そうに背中の女性を振り返った後、深呼吸して気を落ち着ける。
そして、ゆっくりと告げた。
「――今回の食中毒事件、初の人間の患者です」