作品タイトル不明
6. 結婚の不安
その後 一月(ひとつき) ほどが経った頃、一度王都に戻っていた父とともに、母が領地へと戻ってきた。
私はその両親と一緒に、馬車で半日以上をかけ、フェルナー伯爵邸へと向かった。
通された応接間で丁寧に挨拶をすると、伯爵夫妻は値踏みするように私をじっくりと眺めた。うちの両親に負けず劣らず尊大な態度と雰囲気だが、こちらは裕福な伯爵家。我が家とは比べものにもならない。
白髪交じりの口髭をたくわえたフェルナー伯爵が、低い声で言った。
「当の本人がいなくて申し訳ない。息子のニルスは東方の国境戦に赴いたまま、後方支援の補給所の管理で忙しくしているようでね」
(……東方の国境沿いの暴動は、鎮圧されたと聞いて久しいけれど……。現地ではいろいろ起きているのかしら)
伯爵のその言葉を受け、隣に座っていた夫人が手にした扇を広げ、弾むような声を上げる。
「嫡男として勉強させたいことは山ほどあるのですが、実力を買われてか、戦地でも引っ張りだこのようで。でも、いい加減に身を固めてもらわないとね。息子はいつ引き揚げて来られるか分からないなんて言うから、リエラさん、ニルスを支えられるように、うちの仕事もたくさん覚えていってちょうだいね」
「し、承知いたしました。しっかりと務めさせていただきます」
「これまで良いお家柄のご令嬢との婚約の話は、何度もございましたのよ。でもね、相手方の様々な事情が重なって、なかなか縁を固めることができなくて。こちらもかなり吟味しておりましたしねぇ。可愛い妻を迎えれば、ニルスも屋敷に戻ってきて落ち着こうという気になるかもしれないわ。お願いしますよ、リエラさん」
「は、はい」
「あの子はね、可愛げのある従順な女性が好きだと思うわ。夫を立てて、尽くしていってちょうだいね」
夫人はよく喋る人だった。その言葉の端々には常に自慢と棘が含まれており、私やローゼン男爵家を下に見ている雰囲気が、ありありと察せられた。
息子は上官たちからの信頼も厚く、部下たちには慕われている、仕事熱心なあまり婚期を逃してしまったと、何度も息子の出来の良さを褒めたたえていた。
私の両親は夫人の話を黙って聞きながら、ひたすらにこやかに頷いていた。
その日から、私は実家であるローゼン男爵家からフェルナー伯爵家へと通い、領地経営や家政を学ぶ生活を始めた。両親はすぐにまた王都に戻ってしまい、私は実家の薬草加工の作業や勉強を続けながら、新たに伯爵領のことまで覚える日々を繰り返した。
そして、お相手に一度も会わぬまま過ごした、わずか半年間の婚約期間を経て、私とニルス様は結婚の日を迎えた。
「式の当日にはニルスが戻ってきますからね。それから数日間は屋敷に留まるかもしれないと、手紙に書いてあったわ。いい? リエラさん。あなた次第よ。ニルスをその気にさせて、妻として迎えられた最初の夜から、夫の関心を全て自分に向けるよう努力なさい。後継をなすことが、あなたの大きな責務の一つよ。分かるわね? 身も心も夢中にさせるのよ」
式の一週間前、夫人からかけられたその言葉に、私は慄いた。
意味は分かったけれど、私には何の経験もないのだ。閨教育だって、屋敷の侍女長から言葉で教えられただけ。母は何も教えてはくれなかったし、当然平民学校でそんなことは習わない。身も心も夢中にさせろなんて言われても、私にできることは初対面の挨拶だけだ。
夫人にこう言われてから、私は毎日お腹が痛くなるほど悩み、食欲も出なかった。
その後、使用人の一人とともに馬車に乗り、数日間の旅の末、私は生まれて初めて王都へとやって来た。それは結婚式の前日のことだった。
ローゼン男爵家のタウンハウスにも、私だけはこれまで一度も連れてこられたことはなかった。今回初めて足を踏み入れ、驚いた。
玄関ホールの壁には、金色の額縁に収められた風景画が何枚も並び、それらの中央に、両親と兄、マチルダが揃った肖像画もあった。
当たり前のように私の姿だけがないその絵を見ても、そのこと自体にはもはや何も感じない。それよりも、全体に敷き詰められた美しく柔らかな絨毯に、高価そうな調度品の数々……。領地の屋敷にはないそれらを目にした私は、絶望のため息をつくしかなかった。
(資金が足りないといつも愚痴を言っているのに、こんなに贅沢をしているだなんて……。こちらには人を招くことが多いから、相変わらず見栄を張り続けているのでしょうね……)
ある程度のことは想像していたけれど、タウンハウスの中はその私の想像よりも、はるかに豪奢だった。
呆然としていると、階段の上からマチルダが下りてきた。
「あらぁ! お姉様! ふふふ、やっぱり地味な恰好で来たわね。やだわぁ、もう。田舎者丸出しじゃなーい」
小首を傾げながらそんなことを言い、私のそばまでやって来たマチルダは、少し見ない間にまた美しさに磨きがかかっていた。
目が眩むほど艶やかな赤毛は綺麗に伸ばされ、ツインテールに結ってある。鮮やかなオレンジ色のドレスは、胸元が大胆に開いていた。体の線にぴたりと沿うそれは、腰からお尻にかけての曲線を強調している。
しっかりと施された化粧と相まって、童顔の十六歳の身なりとしては、あまりにも生々しく扇情的だ。幼い髪型とも不釣り合いで、全然噛み合っていない。
「……久しぶりね、マチルダ。あなた……、いつもそんな恰好をしているの?」
再会したばかりで聞くことではないかもしれないが、あまりにもちぐはぐだし、正直、品もない。この子が学園や周りの貴族たちからどう見られているのかと、心配になったのだ。
けれどマチルダは、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「うふふ、そうよ。貴族女性の間で今流行っているのはね、こういう大人っぽいデザインのドレスなの。お姉様が着ているような、そんな装飾の少ない地味な色のドレスなんて、誰も着てないわよ。ドレスっていうか……、ふふ。まるで平民のワンピースみたい。お姉様って顔立ちも服装も、本当に地味なんだからぁ」
そうは言われても、私には新しいドレスなんか用意されることはないのだ。普段は使用人たちがサイズを仕立て直してくれた、古いデイドレスやワンピースを着回しているのだから。
今回こうして王都に出てくることになり、母からの許しが出て、領地の衣装店で一枚だけデイドレスを買わせてもらった。これももちろん、タウンハウスに出入りする長女がみすぼらしい恰好だと恥ずかしいという自分の見栄だろう。
(この子、私を見るたびに「平民みたい」って、そればっかりね……)
小さくため息をついた私は、それ以上何かを言うのは止めた。
久しぶりに、家族が揃った夕食の席。けれどそこでの会話は、「くれぐれもフェルナー伯爵夫妻やニルス殿の不興を買わないこと」という父からの説教や、母の「リエラの新しい衣装やウェディングドレスのせいで、無駄なお金がかかってしまったわ」という、聞こえよがしな愚痴だけだった。
マチルダはそれらを聞きながら意地の悪い笑みを私に向け、兄は相変わらず存在感を消して黙々と食事を続けていた。
そして、結婚式当日。教会の控え室に足を踏み入れた私は、そこで初めて自分が着るウェディングドレスを目にした。母が選び用意したそれは、ごくごくシンプルなものだった。マチルダが普段着ているデイドレスの方が豪華だ。
最低限の形式を整えたといわんばかりの装いに身を包んだ私は、緊張で喉をカラカラにしながら、いまだ現れぬ夫を控え室で待ち続けた。