作品タイトル不明
10. 残酷な仕打ち
厨房の隅でその日の昼食を済ませた後、私は自室に戻り、社交界のマナーについて記された書物を読んでいた。
何せ末端の貧乏男爵家から、伯爵家に嫁いできた身だ。そのうえ貴族学園にも通ったことがない。男爵領からもほとんど出たことがなく、社交界のしきたりなどほとんど何も知らぬままだった。覚えなくてはならないことは、学んでも学んでも尽きることがなかった。
するとしばらくして、一人の侍女が私の部屋を訪ねてきた。驚いて顔を上げると、フェルナー伯爵夫妻が呼んでいるという。
私は指示された応接間へと急いで向かった。待たせてしまうと、また怒鳴られるかもしれない。
「失礼いたします」
声をかけ、応接間に一歩足を踏み入れた私は、中に揃っている人たちを見てそのまま固まった。
フェルナー伯爵夫妻が、大きなソファーに並んで腰かけている。ローテーブルを挟んだその向かい側には、なんと驚くことに、結婚式の日以来一年ぶりに見るニルス様が座っていた。そして──。
(マ……、マチルダ? なぜ、マチルダがニルス様の隣に?)
そのニルス様に寄り添うように座っていたのは、紛れもなく私の妹、マチルダだった。
彼女は部屋に入ってきた私の方に顔を向けると、小馬鹿にするようにくすりと笑った。
「お姉様、お久しぶりね。やだ、またそんな地味な格好をして……。ふふふ」
久しぶりに見たマチルダは、一層華やかさを増していた。
艶やかな赤毛は腰のあたりまで伸び、凝ったツインハーフアップに結ってある。その髪と同じ色の刺繍がふんだんに施された濃桃色のデイドレスは、豊かな胸元や細い腰の線を強調するデザインだ。真っ赤に塗った唇が弧を描いている。「娼婦みたいだな」という感想が、頭をよぎってしまった。華やかだけれど、全く品がない。
私はこのフェルナー伯爵邸でも、シンプルなワンピースばかりを着ている。ドレスなどほとんど持っていないし、こちらで買ってもらえることもないのだから。客人が来る日だけは見栄えのいいものを着るようにと、一枚だけ用意していただいたものがあるけれど。
彼女の隣に座るニルス様は、私に一切目を向けない。ただご自分の前にいるご両親の方だけを見ていた。
フェルナー伯爵が 睨(ね) めつけるような目で私を一瞥すると、淡々とした口調で言った。
「ニルスが、お前の妹君のマチルダ嬢と結婚したいと言っている。聞けばマチルダ嬢は、まだ婚約者が決まっていないようだ。ローゼン男爵夫妻に許可をとり、近くニルスとお前の婚姻は解消する」
(──っ! な……)
あまりにもさらりと言われたものだから、一瞬理解できなかった。そして少し遅れて、体中の力が抜けるほどの衝撃が襲う。
マチルダが胸の前で両手を握り合わせ、ちょこんと首を傾けた。
「ありがとうございますぅ、伯爵様。ニルス様とあたしは深く想い合っているので、そう言っていただけてとても嬉しいですわ! フェルナー伯爵家の後継となる、立派な子を産みますわね!」
マチルダの言葉に、フェルナー伯爵夫人が手にしていた扇を広げると、満足そうに微笑んだ。
「最初からこうしていればよかったわね。まぁでも、これで一安心だわ。さっきの言葉に嘘はないわね? ニルス。マチルダさんと結婚させれば、この屋敷に戻ってきて領地経営の勉強に力を入れるのよね?」
すると紅茶を飲んでいたニルス様が、ティーカップをソーサーの上に置いた。
「帰ってくるってば。その説得のためにこうしてマチルダちゃんを連れてきたんだからさー。マチルダちゃんってさ、本当に俺の好みなんだよ。可愛くて愛嬌があって、胸がデカ……、いや、真面目でひたむきな子さ。地味で可愛げのない女なんて、いらねぇよ」
まるで世間話のような口調で言われたその言葉が、必死で立っている私の胸に深く突き刺さった。
指先から体温が引いていく。くらりとめまいがした。
呆然とその場に佇むしかない私をよそに、四人の会話は続く。マチルダの嬉々とした声が応接間に響いた。
「うふふっ。嬉しいな。尊敬するニルス様のためでしたら、あたしいくらでも頑張れますわ! ダンスのお稽古に、お茶会や夜会でのしきたりの勉強なんかも! あ、身だしなみにももちろん気を付けなくてはなりませんわよね。伯爵家の妻ともなれば、お姉様のような地味な装いでいるわけにはいかないわぁ」
「……フェルナー伯爵家の夫人となるのなら、他にも必要な知識は山ほどありますのよ、マチルダさん。大丈夫なのでしょうね。屋敷全体と使用人の統括も、夫人の仕事よ。もちろん、家計管理もね。それから、領地経営の実務補佐だってする時があるわ。着飾って出かける以外の仕事の方が多いのですから」
「もっ、もちろんですわ! それは大前提として、承知のうえで申しましたの。ふふふ。あたし、王立学園に通っておりましたので。そういったことは、姉よりはるかにたくさん学んできておりますの」
「な? しっかりしてるだろう? マチルダちゃんは。俺を慕うあまりにさ、わざわざ俺の赴任先にまで会いに来てくれたんだぜ。家ではずっと、あの地味姉に虐められてたんだってさ」
(……っ!?)
ニルス様のその言葉に、ショックのあまり霞がかかっていた私の頭が覚醒した。
反射的に顔を上げて彼を見るけれど、ニルス様の視線はこちらには向いていなかった。
「あいつ、あんな大人しくて暗いうえに、かなり陰険だったみたいだ。ガキの頃からマチルダちゃんの私物を次々と取り上げたり、些細なことですぐに怒鳴って殴ったりしていたそうなんだよ」
事実ではない私の逸話が、ニルス様の口からフェルナー伯爵夫妻に語られる。そんなことは、ただの一度もなかった。そもそも私たちは、これまでほとんどの期間一緒に暮らしてさえいなかったのだ。
「マチルダちゃんはこの可愛い顔で目を潤ませて言うんだよ。あんな冷たい女に、俺みたいな素敵な男はもったいないって。もっと本気でこの俺を愛して寄り添い、支えてくれるような女をそばに置いておくべきだって。自分なら、一生俺のために尽くすってさ。な? 可愛いだろう? この子しかいねぇって思ったんだよ」
耳を塞ぐ気力もなかった。四人の表情を見れば、私がどう口を挟もうとも結果は明白だったからだ。
案の定、しばらくするとフェルナー伯爵が私に言った。
「荷物をまとめておけ、リエラ。ローゼン男爵には即日連絡をとる」
こうして私の、夫不在の短い結婚生活は終わりを告げたのだった。