軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三十四.五話:影のファイアウォール

世紀末も終わりに近づいたある日の夜。

渋谷の喧騒から少し離れた一等地に佇む、総ガラス張りの高級デザイナーズオフィス。その最上階にある会議室で乾は、最高級のスーツに身を包み、冷徹な目で複数のモニターを見つめていた。

画面に映し出されているのは、新興ITベンチャー『藤堂ネクスト・ソリューションズ』、および城崎の組織の口座から、蓮の仕掛けた罠へと濁流のように吸い込まれていく総額【五十億円】の資金移動ログである。

「……信じられん。本当に、あの『男』の設計図通りに資本が動いてやがるな」

乾は深くため息をつき、極上の本革チェアに背もたれを預けた。

乾にとって、佐藤蓮という一六歳の少年は、もはや「高校生の神童」などという生易しい存在ではなかった。裏社会の資金洗浄ルートを初手で完璧にスキャンし、自分の命綱である海外の隠し口座と家族の個人情報を完全に掌握した、絶対的な『怪物』。それが、乾の脳内にアップデートされた佐藤蓮のスペックだった。

「本当に恐ろしいガキですよ。我々が何年もかけて築いた裏のインフラを、わずか数分で裸にしたんですからね。とても一六歳の高校生とは思えません」

デスクの傍らに控える乾の片腕、実戦部隊を率いる男が、苦い顔をしながら同意する。乾は手元の上質な万年筆を指先で弄びながら、皮肉げに唇を歪めた。

「年齢なんてものはただの飾りだ。あの男の前に立てば、自分がどれだけ薄っぺらい経験則で生きてきたかを思い知らされる。……それで、城崎のところの動きはどうだ? 何か不穏なノイズは混じっていないか」

「それが向こうさんたちはまるで気づいてない見たいです。こちらが傍受した音声になります」

男が差し出してきた端末から、暗号化された音声データが再生される。スピーカーから流れてきたのは、六本木の高級クラブの喧騒と、下品な高笑いだった。

『ハハハ! 見たか美咲! あの佐藤ってガキのシステム、完全にうちのクラッカーが心臓部を掌握したぞ!』

『素敵、藤堂さん! あいつら偉そうにしてるけど、ただの世間知らずの子供だものね。ねえ城崎さん、あいつらが警察に泣きつく前に、ちょっと実力行使で脅してよ。あのすました顔が絶望に染まるところ、早く見たいわ!』

『ククッ、高橋の嬢ちゃんもエグいこと言うのう。お安い御用や、若い衆を動かして、佐藤のガキの周辺を少し突っついて、生きた心地を無くさせたるわ』

美咲の甘ったるくも残忍な犯罪教唆と、それに乗っかる城崎のドスの利いた声。

会議室に響くその音声ログを聴き終えると、乾は冷酷な笑みを浮かべ、万年筆をトントンと小刻みに机に叩きつけた。

「……あの能無しどもめ。自分が底なしの泥沼にダイブしていることすら気づかずに、まだ勝ち誇った気で吠えているのか。いっそ哀れに思えて来るな」

「若頭、どういたしますか? 城崎の若い衆が動く前に、こちらで物理的にハジいてしまいますか?」

「バカ言え。ボスからのお達しを忘れたか?」

乾は鋭い眼光で部下を睨みつけ、シートから身を乗り出した。

「あの佐藤代表……ボスの命令は絶対だ。『藤堂や城崎、そしてあの高橋美咲には、完全に勝っているという偽の全能感を錯覚させたままにしておけ』。これがオーダーだ。奴らが仕掛けてくる安っぽいサイバー攻撃は、すべてボスの罠に気持ちよく吸い込ませておけばいい。奴らには、システムを乗っ取ったという偽の成功だけを掴ませて、大金を吐き出させ続けるんだよ」

「しかし、佐藤代表の周辺や、あの白雪華という少女に実力行使を仕掛けてくるとなると、話は別では?」

「ああ、そこからは俺たちの仕事だ」

乾の目が、一瞬で本物の極道のそれへと鋭く変貌した。

「学校の周辺を徘徊したり、ボスの周囲の人間や、あの少女に一ミリでも実害を及ぼすような物理的な暴力を仕掛けてきた場合は、我が組織の全リソースをもって、音もなく排除しろ。奴らには、襲撃が偶然の事故で失敗したという偽情報だけを掴ませておけばいい。……それが、俺たちに与えられた影の任務だ」

「承知いたしました。すでに、佐藤代表が通う私立高校の周辺、およびお二人の下校ルートには、我が組織の戦闘班をスーツ姿のコンサルタントに変装させて、二十四時間体制で配置しております。城崎の若い衆が乗った黒塗りのベンツが時折徘徊しておりますが、ボスの視界に入る前に、すべて裏で進路を妨害し、接触を完全に遮断しております」

「絶対に徹底しろよ。大旦那が直々に手配した別室のプロの護衛たちを動かすまでもねえ。ここで俺たちが失敗すれば、俺たちの隠し口座が明日の朝には国税庁に一斉放流されかねねぇからな。絶対にミスは許されんぞ」

「はっ! 我が組織の威信にかけて、佐藤代表と白雪華様の半径百メートル以内には、いかなる害虫も近づけさせません!」

部下が深く頭を下げて退出していく。

静寂が戻った会議室で、乾は冷や汗を拭いながら、手元のノートパソコンで蓮から共有されている『WWW.RS-HS-PROJECT.COM』のダミー防壁のステータス画面を睨みつけた。

藤堂のお抱えの三流クラッカーたちが、必死にキーボードを叩いて「権限を奪ったぞ! 買収成功だ!」と狂喜乱舞している様子が、蓮のシステム側からは丸裸のログとしてリアルタイムで可視化されている。哀れなほどに手のひらで転がされているピエロたち。

『ピン』

その時、乾のパソコンの画面に、専用の暗号化チャットツールを介して、一つのメッセージがポップアップした。送信者は【R・S】――佐藤蓮。

『――乾さん、お疲れ様です。陰からのサポート、恐縮です。あなた方が予定通りに動いて頂けている様で、大変ありがたいです。処理は予定通りにお願いします』

「……っ!? まさか、こちらの会議室の状況までリアルタイムでスキャンしてやがるのか、あのボスは……!」

乾は背筋に冷たいものが走るのを覚え、ごくりと唾を呑んだ。一六歳の少年が、学校ではクリーンな生徒会長として青春を送りながら、裏では自分たちのような本物の極道組織を顎で使い、巨大な罠の舞台装置をコントロールしている。その異常な全能感に、乾はただ震えるしかなかった。

乾は畏怖の念を込めて、素早く 返信(レスポンス) をタイピングする。

『――すべて仕様通りに処理しています、ボス。藤堂たちは完全に勝利を確信し、五十億の資本を罠へ流し込み終えました。奴らが暴発しようとする物理的なカウンターは、すべて俺のラインで未然に遮断します。新世紀(二〇〇〇年)の完全シャットダウンへ向けて、全てオールグリーンです』

『結構です。引き続き、連中の監視をお願いします。新世紀のカウントダウンを楽しみにしていてください。きっとあなたにとっても良い年になると思いますよ』

画面の向こうの蓮の冷徹な微笑みが、文字の隙間から透けて見えるようだった。

「……藤堂も城崎も、そして高橋美咲も。本当に、哀れな奴らだ」

乾はサクラ色から濃紺へと染まっていく渋谷の夜空を見下ろしながら、ポツリと呟いた。

「自分たちが『ガキを遣り込めた』と信じて絶頂に浸っているその場所が、処刑台の真上だとも知らずに……。新世紀が明けた瞬間、どんな地獄へ落とされるか、今から見ものだな」

乾は冷酷に蓮達へと盾突いた物たちの末路を見据えるのだった。