作品タイトル不明
第二十七話:一つの終焉
「お、おのれ……中一のガキが、大人の社会を舐めるなよ……!」
床に崩れ落ち、膝をガタガタと震わせていた高橋社長が、突如として獣のような声を上げて顔を跳ね上げた。その目は完全に血走り、額には太い青筋が何本も浮き出ている。男は脂汗でベトベトになった手で、取り落としていた 携帯電話(ガラケー) をひったくるように掴み取った。
「パ、パパ……?」
父親の異様な様子に、美咲が怯えた声を漏らす。だが、高橋社長はもう娘の言葉など耳に入っていないようだった。狂気に駆られた手付きでボタンを乱暴にプッシュし、携帯を耳に叩きつける。
「こうなったら死なば 諸共(もろとも) だ! 佐藤蓮くん、お前がどれだけここで小賢しいデータを並べ立てようとも、大人の『権力』の前には無力だということを、そのガキの脳みそに刻み込んでやる! 今すぐ大旦那に直接電話をかけ、お前の父親を社会的に抹殺させてやるからな!」
呼び出し音が応接室の静寂の中に虚しく響く。
美咲の実家が仕掛けた、文字通り人生を賭けた最後の悪あがき(暴走)。美咲もまた、父親の狂気じみた迫力に再び勢いを得たのか、涙を流しながらも下劣に歪んだ笑みを浮かべて俺を指差した。
「そうよ、佐藤! パパの本気の怒りを買ったことを、地獄の底で後悔しなさいよ! あんたのお父さんが路頭に迷って、家族全員で泣き叫ぶ姿を特等席で見物してあげるわ!」
二人の醜悪な声が、快適なオフィスの空気を不快に震わせる。
だが、その破滅的な状況を目の当たりにしても、俺はソファに深く腰掛けたまま、一ミリも眉を動かさなかった。
「もしもし! 大旦那ですか! 高橋です! ええ、今すぐお願いしたい件がございまして!」
電話がつながった瞬間、高橋社長は這いつくばった姿勢のまま、受話器に向かって大声でまくしたてた。
「我が社をコケにした生意気なガキがおりましてね! そちらの会社に勤めている『佐藤誠』という男の息子です! 大旦那、古い友人の頼みだ、今すぐその男をクビにした上、業界全体に手を回して再就職もできないように――」
『――うるさいぞ、高橋』
スピーカーから漏れ聞こえてきたのは、地鳴りのように低く、そして凍りつくほど冷徹な、老年男性の声だった。その一言で、高橋社長の言葉がピタリと止まる。
「え……? お、大旦那……?」
『お前が今、どこで何をしているかはすべて把握している。……これ以上、我が社の最優先ビジネスパートナーである佐藤代表に対して、見苦しい無礼を働くのはやめろ。お前のような男を友人と呼んだ覚えは一度としてない』
「な、何を言っているんですか大旦那!? 私とあなたの仲じゃないですか! 我が社の新型システムだって、そちらのインフラに――」
『新型システムだと? 先日の発表会で致命的なクラッシュを引き起こし、我が社の信用まで失墜させかけたあの欠陥品のことか? お前という致命的なクズを放置していたのは、我が社にとって最大の汚点だ』
大旦那の声には、一分の情すら残っていなかった。バブル崩壊後の冷酷な資本主義のロジックに基づいた、完璧なまでの『トカゲの尻尾切り』。高橋社長の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
『先ほど、我が社の法律顧問を通じて、高橋システム開発に対する全面的な契約解除通知と、今回のシステム障害に伴う「総額数億円規模の損害賠償請求」の書面を発送した。……これ以上我が社に関わるな。佐藤誠くんの会社は、これからの我が社の基幹ネットワークを支える最重要ビジネスパートナーとして、来月から大抜擢することが役員会で決定している。お前のような男に、彼の邪魔をさせるわけにはいかないのだよ』
「数億……っ? 賠償、請求……? ば、馬鹿な……っ! 大旦那! 大旦那ぁ!!」
『二度とかけてくるな。見苦しい』
ツーーー、ツーーー……。
無機質な切断音が、応接室に虚しく響き渡る。
「あ……あ、う、あああ……」
高橋社長は完全に魂が抜けたような顔になり、手に持っていた携帯電話を床にポロリと落とした。
彼が最後の生命線として縋り付いた「政財界のコネクション」という名の古いインフラは、より巨大な資本の論理によって、文字通り 塵(ゴミ) のように切り捨てられたのだ。
「パ、パパ……? 嘘よね……? 大旦那様、なんでパパの味方をしてくれないの……っ!?」
美咲が父親の服の裾を激しく引っ張りながら、狂ったように叫んだ。
だが、高橋社長はもう娘の声に応える余裕すらなく、ただただ床を見つめてガタガタと震えていた。
「お前が…… 篭絡(ろうらく) さえできていれば……っ、私が直接動いて、こんな犯罪まがいの脅迫現場を握られることもなかったんだ……っ! 我が家は、完全に終わりだ……お前のせいで、すべてを失ったんだぞ、美咲……っ!」
「え……っ、パパ……? 私の、せい……?」
実の父親から「破滅の戦犯」として怒鳴りつけられ、美咲の顔が絶望で真っ白に染まっていく。
そんな美咲の前に、華が静かに、しかしきっぱりとした足取りで歩み寄った。
「高橋さん」
ハーフアップにまとめた黒髪を揺らし、新オフィスの洗練された光を浴びる華の姿は、圧倒的な美しさと、プロとしての確固たる気品に満ちていた。
「な、何よ……白雪……。私を、笑いに来たのね……っ」
「いいえ。笑う価値すら、もう今のあなたたちにはありません」
華の放った冷徹な一言が、美咲の胸に深く突き刺さる。
「一学期まで、あなたたちの狭い教室のルールに怯えていた自分が、今では本当に不思議です。あなたたちは、他人の作った物の上でしか威張れない、ただの空っぽの人だったんですね。……私たちはもう、あなたたちの届かない、もっと広い世界へ進みます。さようなら、高橋さん」
「あ……っ、あ……」
華の放つ圧倒的なオーラに、美咲は一文字も言い返すことができず、ひっと息を呑んでその場にへたり込んだ。
「これ以上、俺たちの時間を無駄遣いさせないでくれ。高橋社長、そのシワだらけの契約書を持って、すぐにこのエリアから退出するんだな。さもなければ、警察を呼ぶことになりますよ」
俺が冷酷な眼光で見下ろすと、高橋社長は床に散らばった書類を惨めに這い回りながらかき集め、大号泣する美咲の腕を引っ張るようにして、逃げるようにオフィスから去っていった。
静寂を取り戻した新オフィス。
華が、そっと俺の学ランの袖を、いつもの優しい、甘やかな力加減できゅっと握りしめてきた。
「佐藤くん……終わったんだね……」
「ああ、白雪さん。彼らがこれから受けるペナルティは、俺たちの想像を超えるものになるよ」
「うん……っ。佐藤くんが、わたしの隣で、こうして世界を守ってくれるから……わたし、本当に、幸せだよ……っ」
前髪を分けた彼女の潤んだ大きな瞳には、俺への剥き出しの、甘酸っぱい恋慕の光がこれ以上ない解像度で輝いていらように見えて、俺の鼓動が思わず高鳴る。
「ああ。君の才能と、俺のプログラムがあれば、この世界を思い通りに書き換えることなんて簡単さ。次の場所へ進もう、白雪さん」
「うん! どこまでも一緒に行くよ、佐藤くん!」
美咲の実家が仕掛けた見苦しい悪足掻きは完全に粉砕され、大旦那に見限られた高橋家の没落は確定した。だがこれは彼女が辿る破滅の歴史の、まだ序章に過ぎないことを知るよしもなかったのだった。