作品タイトル不明
第二十四話:バブルの残滓と、次世代のドメイン
十一月に入り、駅前の大通りに面した新オフィスには、冬の訪れを予感させる冷たい空気がガラス窓の向こう側に広がっていた。
だが、最新の空調システムによって一定に保たれた室内は、そんな季節の変動など微塵も感じさせないほど、快適で静謐な開発空間を維持している。
「蓮、アメリカの数コンソーシアムから、ポータルサイトのベータ版テストに関する進捗確認のメールが来てるぞ。ドメインの割り当てについても、向こうのネットワーク管理組織(IANA)との調整が完全に完了した」
大型のトリプルモニターに向かい、素早いタイピングを披露しながら源さんが声をかけてきた。机の上には、一九九五年当時としては日本国内に数台しか存在しないような、最高処理速度を誇るワークステーションが鎮座している。
「ありがとうございます、源さん。ドメインネームシステム(DNS)サーバの伝播キャッシュも、世界規模で最短で同期するようプロトコルを組んでおいてください。……白雪さん、そっちの進捗はどうかな?」
俺がパーテーションの向こう側のアトリエブースに声をかけると、華が液晶タブレットの画面から顔を上げ、長い黒髪をサラリと揺らして微笑んだ。
「あ……うん! 佐藤くん、新しいポータルサイトの看板になる、メインビジュアルの背景、いまグラデーションを塗り終えたところだよ。ほら、見てみて?」
俺は彼女のブースに入り、画面を覗き込んだ。
そこに描かれていたのは、サイバー空間を想起させる無機質な幾何学模様と、その中心で淡く優しい光を放つサクラ色のドレスを着た少女の姿だった。六月に妹の結衣が着たあのオーダーメイドのドレスのデザインを、華なりの最高解像度のアートワークとして昇華させたものだ。
「……素晴らしいな。単なるイラストの域を超えて、サイトそのものの世界観を構築してる。このクオリティなら、世界中のクリエイターたちが一目見ただけで『ここが自分たちの新しい聖地だ』と確信するはずだよ」
「本当……? よかったぁ……。佐藤くんが作ってくれたこの静かなお部屋で描いていると、本当に、いくらでもアイデアが溢れてくるの。……あ、でもね、佐藤くん」
「ん? 何かな、白雪さん」
「あのね……学校の、高橋さんのことなんだけれど。最近、クラスの男の子たちが、高橋さんの席の近くで、わざと大きな声で高橋さんのパパの会社の悪口を言ったりしていて……」
華は少しだけ声を落とし、眉を下げて俺の学ランの袖をきゅっとつまんできた。
「一学期までは、あれだけ高橋さんの周りに人が集まっていたのに、いまは誰も話しかけようとしなくて。高橋さん、いつもノートを睨みつけながら、すごく怖い顔をしていて……」
「可哀想に思うかもしれないけど因果応報だよ、白雪さん。彼女が誇っていた『社長令嬢』というステータスは、実家の会社に一〇〇%依存していたものだ。土台が崩壊しかけている以上、残されるのは彼女自身の魅力だけだけど、それで周りから人が消えるのは世の中の冷徹なルールだ。君が心を痛める必要は、どこにもない」
「うん……分かっているの。でも、誰かに 縋(すが) らないと消えちゃいそうなあの人の目を見ていると、なんだか少しだけ、一学期までの自分を思い出しちゃって……」
「君と彼女は根本的に違うよ。君の持つ絵という才能は、誰にも奪えない君自身の資産だ」
俺が彼女の小さな手を優しく包み込むように握ると、華は驚いたように肩を揺らし、それから、耳の裏まで真っ赤に染まりながらも、嬉しそうにきゅっと握り返してきた。
「もう……佐藤くんは、最後までお仕事の難しい理論で説明しようとするんだから。……でもね、その冷たそうで、誰よりも私のことを考えてくれてるのが……本当に、素敵だなと思ってるよ?」
潤んだ大きな瞳で、剥き出しの甘酸っぱい言葉をぶつけてくる華。そんな彼女の言動に俺の心臓が、またしても不規則な鼓動する。
「くっちゃべってないで代表。ほら、アメリカのコアサーバーから、ポータルサイトのドメイン登録完了の最終シグナルが着信したぞ」
源さんがドクターペッパーの缶を掲げながら、ニカッと笑ってメイン画面を指差した。画面の中央で点滅する、登録完了のログ。そこに刻まれた、一九九五年の世界に初めて誕生した、俺たちの帝国のドメイン名は――【WWW.RS-HS-PROJECT.COM】。
「よし、ドメインの 有効化(アクティベート) を確認した。これより、コンテンツポータルの稼働を開始する」
俺がエンターキーを叩くと、新オフィスの全サーバーが連動し、太平洋を越える回線を通じて、世界のネットワークへと俺たちのプラットフォームが放流された。
――だが、俺たちが新時代の幕開けにログを刻んでいたその同じ時刻。
駅前の寂れた喫茶店の奥の席では、まったく別の、ドロドロとした問題が急速に濃度を増していた。
◆◆◆
「――嘘。嘘よパパ、そんなの絶対に嘘だわ!!」
鋭い悲鳴のような声を上げたのは、高橋美咲だった。
彼女の目の前には、ここ数週間で十歳は老け込んだように白髪の増えた父親、高橋社長が、血走った目を剥いて座っていた。かつての高級スーツはシワだらけで、机の上には幾度も書き直された経営計画書と、赤いインクで『契約解除』と印字された取引先からの通知書が散乱している。
「嘘なものか! 調べさせたんだ……あの発表会で我が社のメインサーバーをハッキングし、強制的にデバッグパッチをあてて世界中に恥を晒させた謎の組織【R・S】……。あのシステムの暗号化キーの癖を解析したら、源という男の会社の回線にぶち当たった。そして、その中心にいるのが……美咲、お前のクラスメイトの、佐藤蓮というガキだ!」
「な、何言ってるのよパパ! あんな地味で貧乏な底辺が、パパの会社をめちゃくちゃにできるわけないじゃない!」
美咲は机を叩いて立ち上がろうとしたが、父親の冷酷な、そして狂気に満ちた一言に、その場に凍りついた。
「底辺なのは、今の我が社の方だ、美咲……っ!」
高橋社長は頭を抱え、掠れた声で絶叫するように呟いた。
「あいつのバックには、シリコンバレーの巨頭がついている。すでに数百万ドルものロイヤリティが、あいつらの口座に振り込まれているという噂だ……! このままだと、我が社は不渡りを出して完全に潰れる。私がお前たちに用意してやった家も、学校の学費も、すべて差し押さえられて終わりだ!」
「ひっ……、さ、差し押さえ……?」
美咲の顔から、一瞬で血の気が引いていく。一学期まで自分があれほど見下し、虫ケラのように扱っていた「佐藤蓮」が、実は自分の実家の生命線を完全に握っているという、天地がひっくり返るような現実。
「美咲。お前、佐藤くんと同じクラスだろう? まだ学校では、お前の方がカーストが上のはずだ」
父親は美咲の手をギチギチと痛いくらいに握りしめ、縋るような目を向けた。
「佐藤くんに取り入るんだ。お前の女の武器でも、社長令嬢のプライドでも、何でも使え! あいつを説得して、我が社とポータルサイトの共同運営の契約を結ばせるんだ。……これが、我が家が生き残るための、最後の『任務』だ。分かったな、美咲!」
「パ、パパ……っ」
美咲は、父親の異様なプレッシャーに圧倒されながら、ただコクコクと人形のように首を振るしかなかった。
彼女の脳裏に、最近の教室で、誰もが振り返るほどの美少女へと覚醒し、蓮の隣で幸せそうに微笑んでいる白雪華の姿が、鮮烈な映像として思い起こされる。
(佐藤が……あの貧乏人が、私を見下してるっていうの……? 白雪を、あんなブタを、お姫様みたいに特別扱いして……ッ!)
恐怖、焦燥、そしてドス黒いほどの嫉妬。
父親に利用されていることすら気づかないまま、美咲の歪んだ自尊心は、取り返しのつかない破滅へのプログラムをその胸の中に書き込み始めていた。
美咲の実家が仕掛けた、見苦しいまでの「悪あがき」のカウントダウンが静かに、しかし確実に始まろうとしていた。