作品タイトル不明
第二十三話:新拠点と確固たるシグナル
十月の澄んだ風が、駅前の大通りに新築されたばかりのオフィスビルのガラス面を優しく揺らしていた。
俺たちが数年分の前払いで確保した最上階のワンフロアには、一九九五年の日本において最高峰と言える開発環境が、完璧な仕様で構築されつつあった。
「ほら、お前の指示通りに動かしてた、アメリカの回線業者から直に引き込ませた特注の超高速専用線だけどな。今、すべての開通チェックとパケットの疎通テストが完了したぞ」
新調されたばかりのモダンなスチールデスクの向こう側から、源さんがインカムを外しながら声をかけてきた。かつてのヨレヨレのTシャツ姿を卒業し、少し仕立ての良いオフィスカジュアルに身を包んだ彼は、今や俺たちのプラットフォームを支えるチーフインフラエンジニアの顔になっていた。
「ありがとうございます、源さん。外に人がいないときは、今まで通りの呼び方でいいですよ。代表なんて呼ばれると、流石にこの十二歳の身体には座りが悪いですから。それより、白雪さんの個人ブースのセットアップはどうですか?」
「ああ、そっちも完璧だ。お前の指示書(仕様書)にあった通り、人間工学に基づいた特注のワークチェアを配置して、照明の演色性もルクス単位で細かく調整しておいたぞ。……ほら、本人はもう完全に自分の 世界(レイヤー) に入り込んでるよ」
源さんが苦笑いしながら視線で示した先――半透明のパーテーションで区切られた特設のアトリエブースでは、白雪華が新しい液晶内蔵型のグラフィックタブレットに向かい、一心不乱に専用のデジタルペンを走らせていた。
夏休みを経て、クラスの誰もが息を呑むほどの美少女へと生まれ変わった彼女。長い黒髪を後ろできれいにハーフアップにまとめた横顔は、今やかつてのおどおどとした不具合の面影など一切なく、世界を魅了する『神絵師』としての気品と美しさに満ち溢れている。
「佐藤くん……! あのね、この新しいお部屋、本当に凄いの……っ」
俺の足音に気づいた華が、ペンを止めて嬉しそうに顔を輝かせた。前髪をきれいに分けたその大きな瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。
「新しいペンタブレットの調子はどうだい? 描き味に 違和感(ラグ) はない?」
「うん、全然ないよ! 今までは、頭の中にある色彩を紙に写すときに、どうしても少しだけズレちゃうような気がしていたの。でも、佐藤くんが用意してくれたこの新しい機械と、この光の中にいると、わたしの指先から直接、理想の世界が画面に染み込んでいくみたいで……本当に、魔法にかかったみたい」
「それは良かった。君のその素晴らしいポテンシャルを最大限に引き出すために、このオフィスを作ったんだからね。クリエイターの開発環境の最適化に妥協はしないよ、白雪さん」
「ふふ、ありがとう、佐藤くん。すぐにお仕事の難しい言葉を使うけれど……でもね、わたしの作業のためにここまで細かく考えて、専用のお部屋まで用意してくれたこと、本当に、心の底から嬉しいな。なんだか、特別扱いされてるみたいで……」
華はペンを胸元にぎゅっと抱きしめ、白い頬をほんのりとサクラ色に染めて上目遣いで俺を見つめてきた。
かつて教室の片隅で美咲たちに嘲笑われ、スケッチブックを奪われて泣いていた少女は、もうどこにもいない。自分の才能を信じ、プロとしての誇りと俺への深い信頼をその全身から漂わせていた。
「さあ、環境のセットアップが終わったところで、いよいよ次のフェーズだ。海外の開発者コミュニティへ、俺たちの新会社の設立と、次世代コンテンツポータルのティザー(予告)を放流しよう。源さん、メインサーバーのグローバル接続をお願いします」
「応よ! 待ってました! 世界中のギークどもをもう一度ひっくり返してやろうじゃねえか。回線、オンライン!」
源さんが威勢よくエンターキーを叩き、俺たちの新しいオフィスの基幹システムが世界へとダイレクトに接続された。
画面の最下部に刻まれた、俺たちの新しい公式署名は――【R・S & H・S PROJECT】。
佐藤蓮(Ren Sato)の『R』。
白雪華(Hana Shirayuki)の『H』。
カタカタカタ、と小気味よい打鍵音を響かせながら、俺は海外の主要なテックサーバーのトラフィックログを監視していく。
放流からわずか数分。太平洋を越えた海の向こうの掲示板には、再び狂熱的なアクセス負荷が記録され始めていた。
「おい、始まったぞ……。蓮、ログの流れる速度が尋常じゃない。サーバーが悲鳴を上げかけてる!」
「大丈夫です、源さん。俺の作った軽量化プロトコルなら、この程度のアクセススパイクは想定内です。……ほら、海外の連中が気づき始めましたよ」
画面を流れる英語のテキストを、俺は華にも分かるように読み上げていく。
『おい、見ろ! あの伝説の通信ソフトの生みの親が、新しい署名を出したぞ!』
『「R・S」だ! また連中が仕掛けて来た!』
『そして隣には、あの奇跡のブルーヘアの少女を描いた「H・S」の名もある! 彼らは日本で、正式な開発帝国を立ち上げたんだ!』
『彼らが今度、世界初のイラスト特化型プラットフォームを作るらしい。あのアートワークが毎日見られるなら、我が社の全リソースを賭けてでも、そのサイトの最優先プレミアム会員になるぞ!』
「凄い反響だね、白雪さん。世界が君の次の線を、首を長くして待っているよ」
俺が画面を見つめたまま告げると、華はそっと椅子の距離を詰め、机の下で、俺の学ランの袖をきゅっと、愛おしそうに握りしめてきた。
「佐藤くん……世界の人たちが、あんなにたくさん、わたしたちの名前を呼んでくれているんだね。「R・S」と、「H・S」……。二つの名前が並んでいるのを見るだけで、わたし、胸の奥がすごく、温かくなって……なんだか不思議な気持ちになっちゃう」
「不思議な気持ち、かい?」
「うん。だって、学校ではあんなに否定されていたのに、ここでは、佐藤くんとわたしの名前が、まるで世界を変える記号みたいに扱われてる。……佐藤くんが、わたしの手を引いて、この広い場所に連れてきてくれたからだね」
彼女の指先から伝わってくる、微かな震えと確かな熱量。
学校という狭い箱庭での安っぽいマウンティングや、美咲の実家の崩壊などもはや俺たちの視界には一切映っていない。
「ああ。君の絵と、俺のプログラムがあれば、この一九九五年の世界を思い通りに書き換えることなんて簡単さ。誰の介入も許さない、俺たちの完璧な未来の仕様書を、これから二人で完成させよう」
「うん……っ! どこまでも、世界の果てまで、わたし、佐藤くんの隣で、ずっとずっと、あなたのために描き続けるよ……っ!」
華は涙が溢れそうになるのを堪えるように最高に美しい笑顔を咲かせ、俺の袖を掴む手に、さらにきゅっと力を込めた。
「おいおい、だから源さんの前で熱烈な愛の告白を始めるんじゃないっての。中一のくせに、当てつけかよ!」
源さんが大袈裟に頭を抱えて天井を仰ぐ。そのコミカルな反応に、華は「ふふっ」とようやくいつもの穏やかな、世界一美しい笑みを取り戻した。
「さあ、センチメンタルなのはここまでだ。源さん、ポータルサイトのバックエンドの構築を進めましょう」
「応よ! 次のステージだな!」
俺は手を離し、メインディスプレイへと視線を戻した。画面には、次なるターゲットである『二〇〇〇年代初頭のITバブル』へ向けた、膨大な市場分析データがスクロールを始めている。
二つの無敵のコアモジュールが完全に結合した新時代のプラットフォームは、今、新オフィスの眩しい光の中から、世界のすべてを支配するための爆発的な出力を上げて、本格的な稼働を始めていた。