作品タイトル不明
第二十一話:資本の波濤と、揺るぎなきコミットメント
シリコンバレーの巨頭から提示された「五百万ドル」という巨額のオファー。
一九九五年の日本において、中学生のコンビが叩き出した実績としては天文学的な数字だったが、俺たちのゴールから逆算すれば、これは想定されたチェックポイントを通過したに過ぎない。
週が明けた月曜日の放課後。源さんの秘密基地には、いつにも増して張り詰めた、しかし心地よい熱気が満ちていた。
「おい、蓮、白雪ちゃん。契約書の最終確認が完了したぞ」
源さんが、いつになく真剣な表情で、英語の透かしが入った分厚い書類をデスクに置いた。普段のヨレヨレのTシャツ姿ではなく、曲がりなりにもアイロンの当たったシャツを着ているのが、事の重大さを物語っている。
「向こうの法務部門も、まさか日本の地方都市にいる中学生二人と取引してるとは夢にも思ってないだろうなぁ。源さんのダミー法人を挟んだスキームは、完璧に機能しているみたいだね」
「ああ。お前が指示した通り、知的財産権の根幹はこちらに留保したまま、次世代OSにおける『限定的な独占使用権』だけを切り売りする形にした。これなら、将来的に白雪ちゃんの絵を別のメディア展開に流用する際にも、一切の制約は発生しない。……本当に、お前の中身はどこの辣腕弁護士だよ」
源さんは感心通り越して呆れたようにため息をつき、ファンタをぐいと煽った。
「当然の前提だよ。目先の巨金に目を奪われて、コンテンツのマスター権を手放すのは、長期的なビジネスモデルにおいて最悪の展開だからね。……白雪さん、ここに君のサインをお願いできるかい?」
俺が書類の署名欄を指差すと、隣に座っていた華がおずおずと、しかし確かな手つきで万年筆を握った。
夏休みを経て、クラスの誰もが憧れる美少女へと洗練された彼女は、その指先までもが、まるで芸術品のようにしなやかで美しい。
「サイン……うん。えっと、『白雪華』って、日本語で書いても大丈夫、なのかな……?」
「ああ、問題ないよ。君のその名前自体が、これから世界中でブランドとしての価値を持つようになるんだから」
「ブランド、かぁ……なんだか、まだ、ちょっとだけ遠い国のお話みたい」
華はクスッと小さく笑いながら、丁寧に、一画一画に想いを込めるように名前を刻んでいった。
前髪の隙間から覗くその瞳は、一学期までの、美咲たちに怯えていた頃の濁りは完全に消え去り、自分の未来を信じる純粋な光で満たされている。
「よし、これで契約は完全に締結だ。数日以内には、スイスの信託口座を経由して、第一期のロイヤリティが着金する。これで俺たちの資金力は、国内の並のITベンチャーを遥かに凌駕した」
俺が書類をファイルに収めると、華はペンを置き、そっと自分の胸の前に両手を合わせた。
「佐藤くん……あのね。わたし、今日、学校の帰りにね、高橋さんの家の前を通ったの」
華が、少しだけ声を落として言った。
美咲の実家の会社は、例の発表会での大失態以降、急速に資金繰りが悪化し、すでに事実上の倒産状態にあるという噂だった。駅前の立派なビルにあったオフィスはもぬけの殻になり、美咲もここ数日、学校を欠席し続けている。
「高橋さんの、お家……荷物がたくさんトラックに積まれていて、高橋さん、すごく小さくなって、お母さんの服の裾を掴んで泣いてた……」
華の優しい心が、かつて自分を虐げていた相手に対して、微かな痛みを覚えているのが分かった。
俺は彼女の真隣に椅子を寄せ、その少し震える小さな肩に、そっと手を置いた。
「同情する必要はないよ、白雪さん。彼女たちの実家が崩壊したのは、俺たちが攻撃したからじゃない。中身のない虚飾のまま、時代の変化という負荷に耐えられずに自滅しただけだ。それが市場の冷徹なルールなんだよ」
「うん……分かっている、の。でもね、佐藤くん。わたし、それを見て、本当に……本当に、怖くなっちゃった」
華はゆっくりと顔を上げ、潤んだ大きな瞳で、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
その瞳の奥には、消えない恋慕の情と、それ以上の、俺に対する絶対的な依存と信頼が渦巻いていた。
「もし……もし、あの時、佐藤くんがわたしを見つけてくれなかったら。わたしの絵を『価値がある』って言って、世界に連れ出してくれなかったら……。わたしも今頃、あの狭い教室の片隅で、誰にも気づかれないまま、心が壊れて、消えちゃっていたかもしれないって……そう思ったら、胸が、きゅーって苦しくなって……っ」
華の指先が、俺の学ランの袖をきゅっと、今度は引きちぎらんばかりの強さで握りしめてきた。
彼女の身体から、甘酸っぱい、少女特有の微かな香りが漂い、俺の精神を微かに揺さぶる。
「だからね、佐藤くん。わたし……一生、佐藤くんの隣にいるって、もう心に決めたの。佐藤くんの作るプログラムのために、わたし、もっともっと、世界中が驚くような綺麗な絵をたくさん描く。だから……だから、ずっと、わたしを離さないでね……?」
じれったくて、もどかしくて、だけどこれ以上ないほどに純粋な、少女からの終身誓約。
前世のあの土砂降りの夜、すべてを失った俺に『全部あげるから、死なないで』と言ってくれた、あの白雪華の魂の叫びが、この一九九五年において、より美しく、より強固な形で俺の胸に突き刺さった。
俺は、袖を掴む彼女の手を、今度は力強く、しかし優しく両手で包み込んだ。
「離すわけがないだろう、白雪さん。君のその才能――そして君自身の意思は、俺にとって必要不可欠なものだからね」
「佐藤、くん……っ……」
華の白い頬が、一瞬でサクラ色を通り越して、耳の裏まで真っ赤に染まっていく。
彼女は恥ずかしそうに視線を落としながらも、俺の手の手のひらの温かさを確かめるように、きゅっと、愛おしそうに握り返してきた。
「おいおい、だから源さんの前で熱烈な愛の告白を始めるんじゃないっての。中一のくせに、当てつけかよ」
源さんが頭を抱えて天井を仰ぐ。そのコミカルな反応に、華は「ふふっ」とようやくいつもの穏やかな、世界一美しい笑みを取り戻した。
「さあ、センチメンタルなのはここまでだ」
俺は手を離し、メインディスプレイへと視線を戻した。
画面には、次なるターゲットである『二〇〇〇年代初頭のITバブル』へ向けた、膨大な市場分析データがスクロールを始めている。
「潤沢な資金は手に入った。次は、この一九九五年の日本に、誰も介入できない俺たちの『独立したプラットフォーム』を本格的に構築する。白雪さん、次のステージへ進もう」
「うん! 私、佐藤くんのためなら、どこまでだってついていくよ!」
箱庭の境界線を完全に越えた俺たちは、世界の頂点へ向けて、さらなる圧倒的なクオリティで、新時代を切り開き始めていた。