作品タイトル不明
第二十話:箱庭の境界線と、新たなアーキテクチャ
高橋システム開発が引き起こした騒動の 処理(デバッグ) が完了してから、二週間が経った。
噂の伝播効率というものは、いつの時代も無秩序に広がっていくものだ。美咲の父親の会社が「致命的な欠陥を露呈した」という情報は、地方のビジネスコミュニティだけでなく、この平穏な住宅街の大人たちの間にも広く周知されていった。
「佐藤さんのところの蓮くん、本当に凄いらしいわよ」
「源さんのところで、何かアメリカの大きな銀行と取引をしたんですって?」
夕方のスーパー。母親の買い出しに荷物持ちとして同行した俺の耳に、近所の主婦たちのヒソヒソ話が届く。
一学期まで我が家を覆っていた「経済的な不安」という名の問題は、もうどこにも見当たらない。カゴの中には、前世では特売日にしか買えなかった国産牛が、何の躊躇もなく収められていた。
「ねえ、蓮。今日のすき焼き、お豆腐は焼き豆腐と普通のやつ、どっちがいいかしら?」
母が振り返り、心からのゆとりに満ちた笑顔で俺に問いかける。夜の過酷なパートから解放された彼女の肌は、見違えるほど艶を取り戻していた。
「父さんの健康維持を考えるなら、植物性タンパク質が豊富な焼き豆腐を多めにするのが良いと思うよ、母さん」
「ふふ、また蓮は難しい言い方をして。でも、お父さんも今じゃすっかり元気になって、毎朝『体が軽いんだ』って会社に行くのよ。本当に……あの時、蓮が無理にでも病院に連れて行ってくれなかったらって思うと、今でもゾッとしちゃうわ」
「俺はただ父さんの症状を調べて、もしかしたら……って思っただけだよ」
俺たちが笑い合いながらレジへ向かおうとした、その時だった。
「――あ」
通路の向こう側から、一つの人影が、力なくショッピングカートを押して歩いてくるのが見えた。
高橋美咲の母親だった。
一学期の授業参観の時には、海外の高級ブランドバッグをこれ見よがしに誇示し、我が家の母親を品定めするような視線で見ていた女性だ。だが、今の彼女の姿には、かつての「社長夫人」としての華やかなオーラは一滴も残っていなかった。
髪は少し乱れ、目の下には濃い隈が刻まれている。カゴの中には、半額シールの貼られた惣菜や、安価な袋麺ばかりが詰められていた。
美咲の母親は、俺と母の姿を認めた瞬間、ビクッと身体を強張らせた。
そして、我が家のカゴの中にある食材と、母の仕立ての良い新しい衣服を一瞥し、ひどく惨めそうに顔を伏せて、逃げるように別の通路へとカートの進路を変えていった。
「……高橋さんの奥さん、大変みたいね。噂では、駅前のビルを引き払って、古いアパートに引っ越す準備をしてるって……」
母が少しだけ気の毒そうな声を漏らす。だが、俺の心は一ミリも動かなかった。
「気の毒に見えるかもしれないけど、環境に適応できなかったシステムの自然淘汰だからしょうがないよ」
買い物を終え家に戻ると、今度は我が家の「最優先保護対象」がドタドタと走ってきた。
「おにいたん! おかえりなさーい!」
結衣が短い手を広げて、俺の腰にしがみついてくる。その背中には、この前特注で作らせた、ピンクの可愛いクマのリュックが乗っかっていた。
「ただいま、結衣。今日も幼稚園で良い子にしてたか?」
「うん! あのね、結衣ね、ピアノの先生にね、『結衣ちゃんは凄く上手だから、もっと難しいお歌も弾けるよ』って言われたの! おにいたん、結衣のピアノ、あとで聴いてくれる?」
「ああ、もちろんだよ。結衣の弾く曲なら、どんな曲でも俺にとっては世界最高の音楽だからね」
妹を抱き上げ、そのぷにぷにとした頬を突っつくと、結衣は「キャハハ!」と嬉しそうに声を上げて笑った。前世で彼女の未来を縛り付けていた経済的制約は、俺の手によって完全に粉砕されている。この子はこれから、自分の行きたい道を、何一つ妥協することなく最高速度で駆け上がっていくと思うと先が楽しみでしょうがない。
家族と共に穏やかに過ごした俺は、夕食後、すぐに源さんの秘密基地へと移動した。
平屋のドアを開けると、そこにはすでに先客がいた。
「あ、佐藤くん……! お疲れ様、です……っ」
椅子から立ち上がり、少しはにかむように微笑んだのは、白雪華だった。
長い黒髪をサラリと揺らし、すっかり余分な肉が落ちてモデルのように美しいスタイルになった彼女は、今や世界中のテックコミュニティで『神の絵師』としてその名を知られ始めていた。
「お疲れ様、白雪さん。新しいグラフィックタブレットの操作感はどうだい?」
「う、うん……っ。佐藤くんが、アメリカからわざわざ取り寄せてくれたこの機械……本当に凄いの。今までは、紙に描いた線をスキャンするしかなかったのに、これなら、画面に直接ペンを走らせるだけで、わたしの頭の中にある色が、そのまま線になって溢れてくるみたいで……っ」
華は新調されたペンタブレットを愛おしそうに撫でながら、目をキラキラと輝かせた。その口調には、かつてのおどおどした劣等感の影はもう一文字も残っていない。
「それは良かった。これからはね、白雪さん。アナログの境界線を超えて、すべてがデジタルという新しいアーキテクチャの上で構築される時代が来る。君のその素晴らしい線を、俺のプログラムが世界にきっと届けてみせるよ」
「あ、アーキテクチャ……? ふふ、佐藤くんは今日も難しい言葉ばかりだね。でもね、わたし……佐藤くんのその、一見冷たそうに見えて、誰よりも温かい言葉が、世界で一番大好きなんだよ?」
華はペンを握った手を胸の前にぎゅっと合わせ、上目遣いで俺を見つめてきた。長い前髪を分けたその瞳には、未来のトップイラストレーターとしての誇りとどこか特別な熱の様な物が映し出されていた。
「おいおい、中一のガキどもが、源さんの神聖な作業場でイチャイチャするんじゃないよ」
奥から、ドクターペッパーの缶を持った源さんが呆れたように笑いながら歩いてきた。
「源さん、冷やかさないでください。それより、例の海外からのオファーの件ですが」
「ああ、その件なら、お前の言う通り『パーフェクトな回答』を用意しておいたぞ。シリコンバレーの超大手OS開発企業から、白雪ちゃんのイラストを次世代OSの標準デスクトップテーマとして、総額五百万ドルで独占買い取りしたいという公式のプロポーザル(提案)だ」
源さんが画面を指差す。そこに表示されていたのは、一九九五年の世界を根底からひっくり返すような、莫大なロイヤリティ契約の仕様書だった。
「五百万ドル……日本円で、約六億円、ですか」
俺は至って冷静にその数値を弾き出した。だが、隣にいた華は、「ろ、六億円……っ!?」と、さすがにその天文学的な数字に驚いて、俺の学ランの袖をきゅっと掴んできた。
「佐藤くん……六億円って、お家がいくつ買えちゃうの……? わたしの絵に、本当にそんな……」
「白雪さん。言っただろう。君の才能は、世界が喉から手が出るほど欲しがっている本物の富なんだ。六億なんて、これからのロードマップの、ほんのプロローグに過ぎないよ」
俺は、袖を掴む彼女の小さな手を、そっと上から包み込むように握りしめた。
華の身体がビクッと跳ね、その白い頬が、一瞬で夕焼けよりも真っ赤に染まっていく。
「佐藤、くん……あったかい、な……っ」
「これからはね、学校の小さな箱庭の中の話じゃない。俺と君、そして源さんの三人で、この一九九五年の世界に、誰も追いつけない最強のデジタル帝国を構築するんだ。白雪さん、俺と一緒に、世界の頂点まで付き合ってくれるかい?」
俺が真っ直ぐに彼女の目を見て告げると、華は涙が溢れそうになるのを必死に堪えるように、しかし今度は一ミリも怯むことなく、力強く、最高に美しい笑顔で頷いた。
「うん……っ! どこまでも、世界の果てまで、わたし……佐藤くんの隣で、ずっと絵を描き続けるよ……っ!」