作品タイトル不明
12話 婚約者
廊下を戻る足音は、先ほどまでの緊張が嘘のように静かだった。
「もう、無茶はするなよ」
ぽつりと、ジョシュアが言う。
「君に何かあったら——マリーに口をきいてもらえなくなる」
少しだけ肩をすくめるような声音に、アリステラは思わず小さく笑った。
「怒らせたら……本当に口をきけなくしそうですものね、お姉様」
脳裏に浮かぶのは、凛とした姉——マリアノーラの姿。
その婚約者である目の前の青年は、見た目に似合わず情けない声を出す。
「やめてくれ、本人に聞かれたら本当に斬られる」
苦笑しながら、両手を軽く上げてみせた。
「マリーに剣を向けられたら、俺は戦えないよ。そのまま切られる」
「それは……否定できませんね」
くすり、と笑いがこぼれる。
「我が家で母の次に強いのは、お姉様ですから」
父も、兄も、そしてこの目の前の婚約者ですら——
誰一人として逆らえない。
ほんの一瞬、あたたかな日常の気配が戻る。
その空気のまま。
「だからさ」
ふと、ジョシュアが足を緩めた。
「俺、長生きしてマリーと幸せに暮らしたいんだ」
冗談めかした口調なのに、その言葉には迷いがない。
「協力してくれ、アリー」
呼び慣れた愛称とともに、そっと頭に触れる手。
やさしく、子どもをあやすような仕草だった。
「……はい」
小さく頷く。
——その距離が、あまりにも自然で。
(……ああ)
(これが、本当の“私”の居場所)
そう思うのに。
触れられるたびに、少しだけ——
“今の姿が本当の自分ではない事”を、
突きつけられる。
胸の奥が、わずかに揺れる。
◇
レオは胸の奥に燻る感情を、無理やり押し込めた。
(……落ち着け)
今はそれどころじゃない。
ここで感情に任せて動けば、余計な波紋を呼ぶだけだ。
ゆっくりと息を吐き、思考を切り替える。
リナは本当に、アリステラの護衛としてここにいるのか。
(——まず、確かめるべきはそこだ)
先ほどのやり取りは——どうにも不自然だった。
胸の奥に残るざわつきを押し殺し、レオは静かに目を細めた。
(……確かめる)
そう決めると、気配を殺す。
足音ひとつ立てず、影に紛れるようにして——
二人の後を、そっと追った。
(……見つけた)
視線の先に、見覚えのある後ろ姿——リナ。
そして、その隣に立つ男。
距離があるせいで、会話はほとんど聞き取れない。
「協力…くれ、…リ…」
距離のせいで、断片だけが耳に届く。
次の瞬間。
男の手が、彼女の頭に触れた。
やさしく、あやすように。
その仕草に——
レオの胸の奥が、ぐっと軋む。
(……なんだ、その手は)
無意識に、拳に力が入る。
飛び出し、振り払いたい…
そんな衝動がせり上がる。
だが。
(……ダメだ)
無理やり感情を押し殺し、視線だけを鋭く保つ。
やがて二人は、アリステラの部屋へと入っていった。
それを見届けると——
レオは、静かにその場を離れた。